前医をそしるべからず

 貝原益軒の養生訓、巻第六 病を慎しむに次のような記述がある。

(655) 我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし。


 「前医をそしるべからず」という警句は、医師になってから教え込まれた。この言葉を思い出す出来事を伝え聞いた。


 重症の脳梗塞後遺症で入院した患者の家族が、急性期医療機関のことを強く非難した。当然のことながら、ご家族からの話だけでは、実際の状況は知るべしもなく、主治医はとりなす態度で接した。
 その後、リハビリテーションは順調に進み、当初の予想と比べるとADLは改善し介助量も減少した。介護力がないことが分かっていたので、介護施設の待機期間を考え、早期に施設申し込みを勧めていた。しかし、どうしても入所できず、約4ヶ月間の入院後、いったん自宅に退院することになった。短期入所、通所などでつなぎながら、老健入所を目指す方針となった。
 関連スタッフと家族を含め、調整会議を行っていた時、事件が起こった。急に訪問診療担当医師がケアマネやMSWの対応を非難し始めた。どうやら、事前にご家族と面談をした時に、患者・家族から相談があり、義憤にかられたらしい。その後に行われた主治医とご家族との面談も大荒れとなった。
 これまでも病棟スタッフの対応に関しクレームが少なからずあり、病棟師長が対応していた。それに加え、MSWおよび主治医に対しても罵倒に近い苦情が出された。ひとつひとつは些細なことだった。しかし、不安を抱えたまま自宅退院を迫られたご家族のお気持ちを考え、主治医は平身低頭して謝るはめになった。


 「前医をそしるべからず」という態度をとることに関し、庇い合いではないかという批判がある。しかし、後で診療した医師は治療の細かな経過については知らない。そのような状況のもとで、患者や家族の情報だけをもとにこれまでの対応を批判することは、フェアではない。怠慢などによる明らかな医療過誤、記録改ざんなどがない限り、前医をあからさまにそしることは、医療関係者は避けるべきと私は考える。
 ご家族の期待と現実はどうしても異なる。不満がたまっている状況で、不確かな情報で後医が前医の非難をするならば、クレームの連鎖が生じる。問題解決の手段として最も必要なことは、相手への尊重と徹底的な対話である。相互理解を妨げる言動を医療関係者は謹まなければならない。