「レオナール・フジタ展」
先日、東京で会議があった時に、上野の森美術館で行われていた「レオナール・フジタ展」を観てきた。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)に関し、Wikipediaをみると、次のように紹介されている。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita, 男性, 1886年11月27日 ー 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で藤田嗣治ほどの成功を海外で収めたものは他にいない。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
フランスでの成功の後、日本に帰国した。しかし、第2次世界大戦中に描いた戦争画に関し、戦後に日本美術界から批判され、追われるように出国している。フランスに帰化した後、カトリックの洗礼を受け、故国に戻ることなく亡くなっている。Wikipediaに、次のような記載がある。
戦後になり、日本美術会などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも述べている。
エッセイの卵 藤田嗣治をみると、日本で再評価されるようになったのは、つい最近である。
「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた君子夫人の協力がようやく得られ、近年作品や背景が日本に紹介され、2006年、戦争画を保管していた東京国立近代美術館を皮切りに、藤田嗣治展が各地で開催されるに至った。
近代美術史にはうとい、というより全く分からない。藤田嗣治という画家の名前は知っていたが、どのような生涯をおくったかは全く知らなかった。問題となった戦争画は、今回は展示されておらず、ネットで観てみた。戦意昂揚のための絵画とは思えない。むしろ、悲惨な戦争の情景が描写されており、心が痛くなる。
初期の裸婦像、所在不明だった群像画の大作、「構図」「争闘」の連作群、晩年に自ら構想を練り完成させたランスの「平和の聖母礼拝堂」とそのフレスコ壁画の習作群などが展示されていた。心動かされる何かがある。他の誰でもない藤田嗣治独特の画風に魅せられた。
来年4月26日-6月7日、仙台でも巡回展が開かれる。もう一度、今度はじっくりと鑑賞してみたい。