幼少期という発明

 「人類進化700万年の物語」という本を読んだ。著者のチップ・ウォルターは科学ジャーナリストであり、ヒト族に分類される人類のなかで、なぜ、私たちホモ・サピエンスだけが生き残れたのかということを、最新の研究結果をふまえ、分かりやすい語り口で紹介している。

人類進化700万年の物語 私たちだけがなぜ生き残れたのか

人類進化700万年の物語 私たちだけがなぜ生き残れたのか


 本書のなかで最も興味深いのが、脳の発達について言及した「第2章 幼少期という発明(または、なぜ出産で痛い思いをするのか)」である。概要をメモする。


 人類は、大型でがっしりとした頑丈型と小型で細身の華奢型とに分かれて進化していた。頑丈型系統に属するパラントロプス属の人類は、大型の平たい歯と大きな顎で根茎や根をむさぼり食って生活していた。彼らはチンパンジーのような体型で脳の大きさは450ccほどに過ぎなかった。前額部から首の後ろまで太くギザギザした骨が連続しており、そこに巨大な顎と太い首につながる筋肉がつながっていた。
 一方の華奢型に属する人類として有名なのは、ホモ・ハビリスである。細身だったがいつも直立歩行をし、古代の人類よりは相当大きな950ccほどの脳を持っていた。頭部と顎の形は頑丈な親戚と異なり、彼らは肉とそれらがもたらすタンパク質を好むようになったことを示している。
 頑丈型が好む高繊維質の食物を消化するには大きな胃と長い腸が必要であり、食べること自体にエネルギーが必要だった。一方、華奢型が好む肉食では複雑な腸管は必要なく、エネルギーを大きな脳を作るのに振り向けることが可能だった。


 この問題について、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこに行くのか」のなかで、著者の帯刀益夫は、次のような遺伝子研究の発見を述べている。


 ヒトとチンパンジーに通じる家系が分岐した後に、咀嚼筋で発現している主要なミオシン重鎖タンパク質の一種(MYTH16)をコードしている遺伝子が消失してしまった。このタンパク質の損失は個々の筋繊維と全体の咀嚼の筋肉を小さくしてしまう。この変異はおよそ240万年前に表れたと見積もられている。
 咀嚼筋の減退は、ホモ族の更新世の進化を特徴づける頭蓋の著しい拡大に役立ったのではないかと言われている。MYTH16遺伝子を不活発にする遺伝子変異が、咀嚼筋を小さくし、そのことによって頭蓋が大きくなるのを抑えていた負の制約が除かれた結果、頭蓋が大きくなり、それに伴った脳の大きさの増加をもたらした可能性がでてくる。つまり、頭蓋骨をきつく縛り上げていたひもの一本が切れたことで、頭蓋に自由度が出て、内容物の脳が大きくなる余裕ができたのである。
 古人類化石研究による解剖学的所見と遺伝子研究が強い関連を示す興味深い例である。


 「人類進化700万年の物語」の記述に戻る。
 直立歩行と大きな脳を持つ華奢型人類は、脳が未成熟の状態で子供を出産するようになった。早く生まれるという私たちの習慣は、科学者が一括して「ネオトニー」と呼ぶ不思議な現象の一部である。「ネオトニー」とは「動物の成体に幼体の特徴が保持されていること」である。私たちは類人猿の胎児のように、比較的体毛のない状態を保つ。一方、脳は誕生後も成長が減速することなく、熱心に増殖を続ける。言い換えると、かつて私たちの祖先では出生前に行われていた過程が、私たちの場合には出生後に行われるようになった。「早く」生まれることによって、私たちの若さは増幅されて長くなり、延長された幼少時代が全体に広がり続ける。進化してきた幼少時代によって非常に柔軟性のある脳の発達が可能になった。
 私たちは、大人の23%しかない重さの脳とともに世界に生まれる。生まれてから3年間に脳の大きさは3倍になり、6歳になるまでの次の3年間も成長を続け、青年期に再び大規模な再配線が行われて、20歳に達する時には大部分の発達が終了している。


 本書のなかで、著者は、グールドの「個体発生と系統発生」の記述を紹介している。

個体発生と系統発生―進化の観念史と発生学の最前線

個体発生と系統発生―進化の観念史と発生学の最前線


 異なる種類の進化的選択を進めるふたつのタイプの環境がある。
 一つはr選択と呼ぶもので、十分な空間と食物があり、競争がほとんどない環境で行われる。r選択では、手近に豊富にある資源をりようするために種ができるだけ素早く十分な子孫を作るように働きかける。
 もう一方のK選択は空間や資源に乏しく、危険で厳しい競争がある環境で行われる。K選択では、環境にかかるストレスとそこで生き残ろうとする生物間の競争を軽減するために種を減速させて、残す子孫を減らし、時間をかけてそれを行うように働きかける。K選択は私たちを「単胎出産の反復傾向、親が徹底的に面倒を見ること、長い寿命、成熟の遅れ、高度な社会化の傾向によって区別される哺乳類のひとつの目」とした。


 「ネオテニー」に関しては、本書の他章でもしばしば触れられている。例えば、「第7章 野獣の中の美女たち」では、ホモ・サピエンスネアンデルタール人については、次のような比較をしている。
 ネオテニーは一生を通して柔軟性のある回転の速いしなやかな脳を作り出して、ユニークな人々とユニークなアイディアを作り出した。私たちは生まれながらの学習者で、何らかの不思議な神経的錬金術で、驚きを探しむさぼり食い、それを知識に変えるように遺伝的に促されている。
 ネアンデルタール人は私たちより速く生きて若く死んだ。そのため脳の柔軟性を失う前に個人的な経験、アイディア、人格を形作る時間が少なくなった。そして柔軟性を失うに従って、彼らは子供らしさを失い、実験を行う傾向も減少した。それに従って彼らの適応性も減少しただろう。


 学習機械といえる柔軟性の高い脳を発達させ、成熟に必要な長い幼年期を「発明」したことが、現在のホモ・サピエンスの隆盛につながっているという主張である。本書では、この他に、心の理論、言語獲得、美的感覚、創造力、自我、など話題が多方面の及ぶ。人類史をたどりながら、ホモ・サピエンスという哺乳類としての自分の姿をあらためて見つめ直すことができる良書である。