野蛮な進化心理学

 「殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎」という扇情的な副題はついているが、人間行動の基本的な原則を丁寧に説明した良書である。重要と感じた点をメモする。

野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎

野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎


 本書は、進化生物学(進化心理学)と認知科学認知心理学)の最新の成果を紹介しながら、出自や教育は異なっていても、人間行動には大きな違いはないということを示している。さらに、あらゆる人間は複雑な網の目の中で相互に結びついているという力学系理論という考え方を提示している。


 「第5章 心はぬりえ帳」、「第6章 ひとつの身体、いくつもの心」、「第7章 マズローと新しいピラミッド」の部分に本書の基本的な考え方が示されている。
 第5章では、心は「空白の石版」であるという考え方を批判し、心を「ぬりえ帳」として考えてはどうかと提案している。内部にある構造(前もって引かれている輪郭線)と外部からの入力(クレヨン)との相互作用で色が塗られる。このぬりえ帳は、空白の石版と違って、複数のページがあることが特徴である。
 第6章では、人の頭の中にあり緩やかに結びついている「下位自己(サブセルフ)」があり、状況に応じて個別の問題を解決していると主張している。本書では、以下の7つの下位自己を提起している。

  • チームプレイヤー: 提携に関連する問題に対処する
  • 野心家: 地位に関する問題に対処する
  • 夜警: 自己防衛に結びつく問題に対処する
  • 強迫神経症患者: 病気の予防を担当する
  • 独身貴族: 配偶者の獲得に関わる
  • よき配偶者: 配偶者との関係を維持する
  • 親: 親族の世話に結びつく問題に対処する

 第7章では、マズローのピラミッドの再構築を試みている。マズローが提案した動機に関するピラミッドは、差し迫った生理的欲求、安全、愛(愛情・所属)、承認(尊重)、自己実現の5段階で構成される。人間は普遍的な基本動機を共有しており、目的ごとに違う下位システムを利用しているという発想は「モジュール性仮説」と呼ばれ、現代の認知科学進化心理学を結びつける基本概念のひとつとなっている。一方、著者が新たに提示したピラミッドでは、子育て、配偶者の維持、配偶者の獲得、地位・承認、提携、自己防衛、差し迫った生理的欲求の7つが上から順番に重ね合わされている。第6章で提示された下位自己がここで再構成されている。マズローが最上位に置いた自己実現は承認のカテゴリーに収められ、代わって、子育て、配偶者の維持、配偶者の獲得という繁殖に関する3つの動機が最上位に置かれている。進化論的視点では、性に関する動機と競争に関する動機がどちらも人間の否定しがたい特徴だとしているが、その一方で、強調、愛、子育てが集団の存続のために重要であることも強調されている。


 下位自己に関して、以下のような専門用語が本書のなかにちりばめられている。

  • 親の差別的投資と性淘汰: 一方の性(通常はメス)のほうが子供に対する投資が多ければ、その性は交配に慎重になる。その結果、もう一方の性(通常はオス)は、相手に選ばれるために競争をしなければならない。顕示的消費をする男は、繁殖期に尾羽を広げるオスのクジャクと同じである。
  • 包括的適応度: 近親者は同じ遺伝子を高い比率で共有しているので、近親者の繁殖につながる行動はすべて、間接的に自分自身の適応度を高めることになる。
  • 互恵的利他行動: 相手が自分のために何かをしてくれる限り続く助け合いであり、人間の協力行動の基本になっている。
  • 生活史理論: あらゆる動物は有限の資源しか割り当てられていないという前提がある。動物の成長過程には、その希少な資源をいつ、どのように割り振るかについて常にトレードオフが存在する。生活史は大きく二つの局面に分けられる。ひとつは身体的努力(自らの肉体をつくるために消費するエネルギーに関するもの)であり、もうひとつは繁殖努力である。後者は交配と子育てに分けられる。人間は性的成熟期に達するのに時間がかかり、パートナー探しに数年を費やし、さらに自分のエネルギーを子育てに注ぐ動物という特徴がある。人間は繁殖成功度を最大化するために、優先順位を変えながら、下位自己が異なるトレードオフを作り出している。
  • 外集団均質化: 自分が所属する集団のメンバーの識別は容易だが、他集団の識別は困難である。一方、外集団のメンバーから攻撃される恐れがある時には、識別は容易となる。
  • 機能的投影: 自分自身の適応目的に最も適した方法で他人に感情を投影する傾向がある。自分が恐れを感じている時には、他の人が怒りを感じていると考える。投影をする側は、はっきりとした脅威や恩恵をもたらす人の中にだけ、機能的に重要な感情を読み取る。このプロセスが、偏見を生み出すメカニズムとして重要な役割を果たす。


 最終、「第12章 力学系理論と社会のジオメトリー」で力学系理論が紹介されている。重要な概念として、以下の3つが提示されている。

  • あらゆる社会生活は、多方向の因果関係がある。自分が家族、隣人、同僚に影響を及ぼそうとするのと同様に、家族、隣人、同僚もあなたや他のメンバーに影響を及ぼそうとする。
  • しかし、自然は自己組織化に満ちあふれている。秩序はしばしばランダム性から自然発生的に生まれ、集団の成員が単純で利己的なルールに基づいて行う局所的な相互作用によって維持される。
  • 相互作用する要素がごく少数しかなくても、とんでもない複雑性が生まれることがある。

 私たちの社会のネットワークは、異なる基本動機に関連づけられた様々な社会のジオメトリー(形状)が存在する。地位のジオメトリーはピラミッド型になる。友情のジオメトリーは横並びでにじむように広がり、限定的なものとなる。自己防衛のジオメトリーは、集団が大きいほど都合が良くなる。配偶者選択に関しては、比較的大きな集団のなかから配偶者を選び、その選択肢が多ければ多いほど喜ぶ。一方、配偶者維持の場合には、二人の間の駆け引きという形をとる。子育ては、資源が親から子へ流れることの多いトップダウンの形をとり、あらゆるジオメトリーのなかで最も安定している。


 語り口がスマートで、興味深いエピソードが満載である。特に、心はぬりえ帳という比喩は、矛盾に満ちた人間行動を表現するのに適切であり、7つの下位自己と人間行動の動機に関する部分も納得させられる。最終章の部分も、役割相克に悩む現代人に重要な示唆を与える。なお、著者が示したピラミッドのなかで、繁殖に関係する3つの下位自己(子育て、配偶者の維持、配偶者の獲得)、性淘汰に結びつく地位・承認、および、遺伝子の乗り物である個体保持に関係する自己防衛、差し迫った生理的欲求は、他の動物でも多かれ少なかれ認められるが、残る提携(互恵的利他活動)に関しては、ホモ・サピエンスにかなり特異的なものである。残念ながら、本書では、繁殖および競争に関わる部分が中心のためか、個体間の協力関係についてはほとんど言及されていない。
 相互の関連性のないミニ理論が無秩序に散在しているため、近寄りがたかった心理学という世界の全体像が、進化心理学という新しい学問分野ではだいぶ整理された形で提示できるようになってきたということが、本書を読むとわかる。人間関係を取り扱う医療・介護関係者にとって、読んでおいて損はないと思わせる本である。