末の松山浪こさじとは

 百人一首に、清原元輔作として、「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは」という歌が選ばれている。末の松山は、歌枕として有名である。http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/karuta/miyagi.htmlに次のような記載がある。

 古来より恋愛を象徴する歌枕で、「愛の契り」に触れた多くの歌に詠まれた。 「末の松山」は海岸からかなり離れたところにあるので、「波が越える」は「あり得ないことが起きる」、すなわち愛が破局することを意味した。 「末の松山」の所在地には諸説があるが、ここ*1が最も有力である。


 かつては、本の松山・中の松山・末の松山の三つがあったとされる。 貞観地震(869年)で津波に襲われたが、波は越えなかったと推定されている。 東日本大震災(2011年)でもここから先には津波がこなかった。


 調べてみると、2011年3月11日東北地方太平洋沖地震に伴う津波被災マップ塩竈(4)のところ地図があった。塩竈多賀城付近を拡大してみると、次のようになる。


 さらに拡大すると、下図のようになる。


 多賀城市内を流れる砂押川南岸に津波浸水地域が広がっているが、見事に末の松山付近のみ被害を免れている。


 実際の末の松山は、歌枕ということ以外取り立てて目立つことはない小高い土地である。



 近くに、同じく歌枕として有名な沖の井がある。


 百人一首/現代語訳をみると、清原元輔の歌の現代語訳は次のようになっている。

 かたく約束を交わしましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波があの末の松山を決して越すことがないように、二人の仲も決して変わることはありますまいと。


 貞観津波のことが遥か離れた京の都まで伝わっていたことを、この歌は伝えている。百人一首に歌われるような有名な歌だが、波が津波のことを意味していることを、後世の人間は気づかなかった。多賀城の地をかつて津波が襲っていたことを知っていれば、防災計画も異なっていた。今となっては詮無きことなれど返す返すも口押しや、と思えてくる。