「プロクラテスのベッド」

 2007年3月日、『平成19年度医療政策シンポジウム 脱「格差社会」と医療のあり方』という日本医師会主催のシンポジウムを開催された。内容は次のとおり。

挨拶
  日本医師会副会長 竹嶋 康弘


講演
基調講演
 脱「格差社会」戦略と医療のあり方
  東京大学大学院経済学研究科教授 神野 直彦


講演
I  医療のあり方−患者の立場から
  評論家 立花 隆


II  格差社会と医療システム
  慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授 田中 滋


III 社会保障をめぐる政治の展望
  北海道大学法学部教授 山口 二郎


パネルディスカッション
 脱「格差社会」戦略と医療のあり方
  東京大学大学院経済学研究科教授    神野 直彦
  評論家                   立花 隆
  慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授 田中 滋
  北海道大学法学部教授         山口 二郎
  日本医師会副会長           竹嶋 康弘
  (司会) 日本医師会常任理事     中川 俊男


 気鋭の論客が集まり、格差社会がなぜ生じているのか、社会保障の根幹をなす医療制度をどう再構築していくのかが討議された。論理明快で示唆に富む講演であり、目からうろこが落ちる思いがした。今後、当ブログでもシンポジウムの内容についていくつかご紹介していきたい。


 本日は、山口二郎氏の講演社会保障をめぐる政治の展望より、「プロクラテスのベッド」について。

 もう1つ申し上げておきたいのは、財務省主導の政策決定において、「プロクラテスのベッド」というべき症候群があるということです。この、「プロクラテス」というのは、ギリシアの神話に出てくる追いはぎで、旅人を捕まえてきて自分の家のベッドに縛り付ける。ベッドからはみ出す手や足をちょん切るという残虐な趣味を持った強盗なのですが、平成の日本では、財務省こそがプロクラテスであると言いたい。
 私は多田富雄先生がお書きになった一連の本を読みまして、脳梗塞のあとのリハビリテーションについて、保険適用が180日で打ち切りになるという暴挙を、日本の政府が決めたということを、本当に憤りをもって読んだわけです。つまり、リハビリの保険適用を180日で止めるなどというのは、まさに「プロクラテスのベッド」です。日本の国家財政という小さいベッドに国民を縛り付けて、無理矢理ベッドからはみ出す手や足をちょん切るということを、平気で「改革」という名の下にやっているわけです。
 こういう国はやはり文明国ではないし、だいぶ国民の意識も変わってきました。冒頭紹介しましたように、日本人は今こそ社会保障が必要だということを強く感じているところです。私は、先ほどの座標軸で書きましたように、従来型の自民党政治における裁量型の政策によるリスクの社会化の問題点というのは、国民も結構分かっているのではないか。先ほど言ったように、日本型システムを改善する必要がある、特に社会保障が大事なのだということは、まさに裁量型の政策ではなくて、きちんと制度的に確立された、普遍的で公平で透明性の高いシステムによって社会保障を行うべきだという世論だと理解をしてよいと思います。そういう意味で、リスクを社会化していく。そのために政治的なインフラをもう1回作り直していく。これこそが政治の急務であります。


 疾患別リハビリテーション算定日数上限問題について、本ブログでも繰り返し言及した。その内容を「プロクラテスのベッド」という比喩で表現していただいた。財務省主導の政策は、残虐な追いはぎと同じであり、文明国にあるまじき所業であると喝破している。
 リハビリテーション問題だけではない。医療崩壊、介護や年金の破綻は、社会保障費毎年2,200億円削減が原因である。まさに、「ベッドからはみ出た手や足をちょん切る」という非道な政策遂行が日本を破壊している。
 山口先生は、政策分類と政治勢力の位置付けに関して、次のようなことを述べている。まず、「リスクの社会化」を目指すのか、それともアメリカのように「リスクの個人化」を目指すのかが1つの軸となる。さらに、「普遍的政策」で問題対応をするのか、それとも権限、財源をもった役人のさじ加減という「裁量的政策」を行うのかが、もう1つの軸となる。
 日本の政治は、田中角栄型の自民党政治により、「裁量的政策」でお金をばらまくやり方で「リスクの社会化」を行っていた。しかし、この方式は公平性に問題があり、財政的赤字拡大の中で対応ができなくなっていた。小泉政権により行われた改革とは、新自由主義的な「リスクの個人化」に舵を切ったものであり、同時に不透明な「裁量的政策」を行う政治家を抵抗勢力として排除していったものといえる。
 日本が目指すのは、「リスクの社会化」を目指した「普遍的政策」の確立ということになる。小泉政治の延長ともいえる「リスクの個人化」でもなく、道路族が目指す「裁量的政策」の復権でもない。そのためには、政治の転換が必要であることは間違いない。