李下に冠を正さず

 李下に冠を正さずという故事成語がある。中国唐代にまとめられた古楽府のなかにある君子行が出典と言われている。古楽府とは六朝以前に作られた歌唱された詩のことである。前後の句をあわせて載せると次のようになっている。

君子防未然 君子は未然に防ぎ

不處嫌疑間 嫌疑の間に處らず(おらず)

瓜田不納履 瓜田(かでん)に履(くつ)を納れず(いれず)

李下不正冠 李下に冠を正さず

嫂叔不親授 嫂叔(そうしゅく)は親授せず

長幼不比肩 長幼は比肩せず

勞謙得其柄 勞して謙なれば其の柄を得(う)

和光甚獨難 和光は甚だ獨り難し(かたし)

 

 概ね次のような内容である。

君子たるもの、人から疑われるような事は未然に防ぎ、

嫌疑を受けるようなところには、身を置かないものだ。

瓜の畑では、しゃがみこんで靴を履くような仕草をすべきではないし、

李(すもも)の木の下で、冠を直したりしないものだ。

(密通を疑われないように)兄嫁とは親密に接するべきではないし、

年少者は年長者と対等な口をきいてはいけない。

功績があっても謙遜すれば権力を得ることができる。

自分の才能をひけらかさずに、世間と強調することは難しいものだ。

 

 一連の句は、当時の処世訓をまとめたものと思われる。この中で、李下に冠を正さずが人口に膾炙する有名な故事成語となったのには、それなりの理由があると思う。

 自己評価は概ね甘くなる。些細な悪事なら、この程度はかまわないだろうとつじつま合わせが行われる。身内にも同様である。血縁者、友人、同郷の者に多少の便宜を図ることは美徳であり、非難される筋合いなどないと思い込みがちである。しかし、細事が積み重なり縁故中心の仕組みができあがると、つまはじきにされ不利益を被った者たちの恨みを招く。共同体が発展し複雑化するなかで、利己的かつ身内優先のやり方は看過できない悪弊と認識され、公正さを担保するため排除されるべきとされるようになった。人間性の弱点に起因するこの種の問題に対処を迫られるなかで、礼儀を重んじて「冠を正す」という行為さえも場合によっては控える必要があるという意味の警句として、今日まで慣用句として生き残ってきた。

 

 医療の世界でも、「李下に冠を正さず」という意味で利益相反(Conflicts on interst: COI)への対応が大きな課題となっている。

 日本医学会 - 日本医学会ガイドライン:ガイドライン一覧のなかに、日本医学会COI管理ガイドライン(2017年3月)というものがある。本ガイドラインは、日本医学会医学研究のCOIマネージメントに関するガイドライン(2011年2月、2014年2月改定、2015年3月一部改定)を発展させたものである。冒頭に次のような文章がある。

 米国での産学連携活動は、1980年におけるBayh-Dole法の導入をきっかけに強化され、過去 35 年にわたり、医学・医療の分野において基礎研究成果をもとに新規診断法や治療法、予防法の開発ならびに実用化に大きく貢献してきた。しかし、研究機関の長や研究者が営利企業への参入を多くすればするほど、教育・研究という学術機関としての社会的責任と、産学連携活動に伴い生じる個人の利益が衝突・相反する状態が必然的・不可避的に発生する(図1参照)。こうした状態が Conflicts of Interest(COI;利益相反と和訳されている)と呼ばれ、医学系研究の独立性が損なわれたり、結果公表にかかる企業寄りのバイアスリスク(研究バイアス、出版バイアス、報告バイアス)が懸念されるなど、時に社会問題化している。1999 年に発生した米国州立大学でのゲルシンガー事件では、研究倫理の面だけでなく、先端医療研究に潜む COI 問題についても組織としての監督や管理の重要性について全米に大きな警鐘が鳴らされた.

  ゲルシンンガー事件*1とは、治験が成功すれば莫大な財政的利得を得る立場だった治験チームの医師たちが、重大なプロトコールの違反を繰り返したことにより、被験者が亡くなってしまった事件である。現在の医学研究において、産学共同は不可欠のものとなっているからこそ、利益相反への対応が不可欠になってきたことが簡潔に示されている。

 さらに、日本におけるCOI管理に関する取り組みが紹介された後、バルサルタン研究不正疑惑が大幅な改定の経緯となったことが示されている。

  そのような経緯の中で、2012年に我が国の5大学で実施されたバルサルタン(ディオバン)大規模比較臨床研究にかかる特定の企業介入による不正疑 惑が取りざたされ、COI 申告違反ならびに企業に有利となる恣意的なデータ操作が指摘されたことから、複数の論文撤回に至った。2014年4月の厚生労働省高血圧症治療薬の臨床研究事案に関する検討委員会「高血圧症治療薬の臨床研究事案を踏まえた対応及び再発防止策について」の公表を受けて、文部科学省厚生労働省は、倫理指針と疫学指針を統合した「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」を 2014年12月に公表し、研究者だけでなく, 研究機関の長の責任を明確化し、その遵守を求めている。

 一方、日本製薬工業協会(製薬協と略す)は、ディオバン研究不正事案を契機に、臨床研究支援の在り方に関する基本的考え方として、自社医薬品を用いた臨床研究に対して資金提供や物品供与等の支援は契約により実施し、奨学寄附金による支援方法は用いないとの声明を 2014年4月に出し、「医療用医薬品等を用いた研究者主導臨床研究の支援に関する指針」を 2016年1月 に公表している。

  日本においては、バルサルタン研究不正疑惑が、COIに関わる規制強化のきっかけになったことがわかる。製薬協の対応*2 *3は、医師に対する資金等の支払い情報を1年分しか公開しないなど決して十分とは言えない。公表される医師からの猛反発があり、開始も遅れた。しかし、製薬協が示したガイドラインは時代の要請に基づくものと考えなければいけない。医療界も「李下に冠を正さず」の姿勢で、製薬会社や医療機器メーカーとの透明な付き合いをしていかなければ、信頼性が担保されない。

 

 国家公務員の場合は、利益相反に関して、さらに厳しい規制がなされている。国家公務員倫理法国家公務員倫理規程では、利害関係者から供応接待を受けるな、遊技またはゴルフをするな、利害関係者との飲食においても自分で金銭負担をする場合でも1万円以上は事前に届け出ろ等、事細かな規定が列挙されている。繰り返された様々な汚職事件の反省に立ち、国家権力に基づく許認可権を公正に運用するために必要なものとして制定された。

 

 さらに調べてみると、内閣官房資料集に、国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範(平成13年1月6日閣議決定)というものがあるのがわかった。この中には、営利企業等との兼職、株式等の取引の自粛及び保有株式等の信託、資産公開、パーティーの開催自粛、外国からの贈物等の受領、秘密を守る義務などの項目のほかに、関係業者との接触等に関する項目がある。そこには、次のような記載がある。

倫理の保持に万全を期するため、

1 )関係業者との接触に当たっては、供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない。

2 )また、未公開株式を譲り受けること、特定企業における講演会に出席して社会的常識を著しく超える講演料を得ることは行ってはならない。

 

 残念なことに、より重大な責任を負う内閣総理大臣が、大学開設に関わり友人に対する利益誘導を行ったのではないかという疑惑が持たれ、この数ヶ月メディアをにぎわせている。先日行われた閉会中審査において、本人も「『李下に冠を正さず』という言葉がある。私の友人が関わることだから疑念の目が向けられるのはもっともなことだ。」と答弁せざるをえない状況である。身内の首相補佐官からも支持率急落は「隠蔽と公私混同による甘さ」があったと指摘される始末である。

 内閣自らが定めた規範、政治家であって国務大臣等の公職にある者としての清廉さを保持し、政治と行政への国民の信頼を確保するという目標に照らし合わせ、真剣な反省をしていると世論が判断しない限り、政権はそう長くもたないのではないかと感じるこの頃である。