スクルージ・マクダックは、麻生首相を彷彿させる

 少し早いが、クリスマスに関係した話題を一つ。

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)


 「クリスマス・キャロル」(ディケンズ作)を久しぶりに読んだ。なぜかというと、麻生首相の「私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ。」という発言を聞いて、思わず「クリスマス・キャロル」の主人公スクルージを思い出してしまったからである。


 次のような一節がある。募金を集めに来た2名の紳士に対し、スクルージは次のように反駁する。

 「どうか放っといてもらいたい。何を望むとかそっちで訊くから、これが私の返答だ。私自身、クリスマスなんぞは祝わない。閑人が浮かれ騒ぐのに手を貸す余裕はない。私はさっき言ったような施設の維持には協力している。それだけだって大変な負担だ。暮らしに困ってにっちもさっちもいかないなら、救貧院の厄介になればいい」
 「救貧院で受け入れる数には限りがありますからね。いや、それ以上に多くの人がそんなところへ行くくらいなら死んだ方がましだと思っているでしょう。」
 「だったら、さっさと死ねばいい」スクルージは言い放った。「余分な人口が減って、世の中のためというものだ。それに‥‥、ああ、失礼‥‥、どうなろうと私の知ったことではない」


 「クリスマス・キャロル」が刊行されたのは、1943年。ヴィクトリア女王の時代である。産業革命の進展とともに、貧富の格差が急激に拡大した。体系的な社会保障制度などなく、病気や貧困に陥るのは、個人の自己責任であるとされた。きわめて限られた極貧層に対して、国の恩恵として提供される「救貧法」のみがあった。
 その後、労働者自身が賃金の一部を出し合って作った共済組織が誕生した。さらに、ドイツのビスマルク鉄血宰相は、労働運動の高揚を抑える目的で疾病保険(1983年)や労災保険1984年)を作った。その後、社会保障確立を求める運動の中で、生存権という概念が生まれ、種々の社会保障制度が形作られていく。


 麻生首相の発言は、2世紀近く前の資本主義黎明期の思想、自己責任主義を思い起こさせる。確かに、入院している人たちをみると、一部に自己管理能力に欠けている人たちがいる。しかし、健全な生活を送っているにも関わらず、不幸にして病気になった方も少なくない。働きすぎて身体をこわす者、過労死や過労自殺を起こす者がいる。高額な保険料のため、2割近い世帯が国民健康保険料を滞納し、約3万人の子どもが保険証がない事態になっている。無保険者が無理を重ね、手遅れになってから病院にかかる例もある。病気になって働けなくなった人々を嘲るような発言をすること自体、為政者としての資格が問われる。


 スクルージは、過去・現在・未来の精霊に導かれ、自分の生き様を見直す。改悛したスクルージは、ノーブレス・オブリージュに目覚め、慈善活動を心がけ、幸福な後半生をおくる。麻生首相も政界有数の財産家のはずだが、社会福祉活動に積極的という評判は残念ながら聞かない。


 最後にディズニーのDVDのご紹介をする。

ミッキーのマジカル・クリスマス 雪の日のゆかいなパーティー (期間限定) [DVD]

ミッキーのマジカル・クリスマス 雪の日のゆかいなパーティー (期間限定) [DVD]


 本DVDに「ミッキーのクリスマス・キャロル」が収録されている。クリスマスアニメの傑作である。登場人物は全てディズニーのキャラクターである。中でも、主人公のスクルージは、ドナルド・ダックの伯父であるスクルージ・マクダックが演じている。スクルージ・マクダックの名前自体、「クリスマス・キャロル」に由来したものである。このスクルージ・マクダックの顔つきやだみ声、および言動がどことなく麻生首相を彷彿させる。