伯牛の疾はハンセン病か?

 下村湖人著「論語物語」をしばらくぶりに読んだ。

論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)


 本書の中に「伯牛疾(やまい)あり」という一編がある。もとになったのは、雍也篇の次の一節である。

 伯牛有疾、子問之、自扁孰其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也、而有斯疾也、斯人也、而有斯疾也。


(書き下し文)
 伯牛疾あり。子これを問い、扁(まど)よりその手を執りていわく、これを亡わん、命なるかな、この人にしてこの疾あるや、この人にしてこの疾あるやと。


 大要は次のとおりである。

  • 孔子の高弟で徳行で知られた冉伯牛は、らい病(ハンセン病)に罹っていた。
  • 容貌が醜く崩れていく中で、たずねてくる友人もほとんどいなくなった。寂しさとともに、人間に対する呪詛がうずまくようになっていた。
  • 絶望のなかで、人間らしさを取り戻したのは師である孔子の心遣いだった。しかし、理性を保とうとする心と猜疑心の中で、いつしか師も近寄らなくなっていることを恨むようになってしまっていた。
  • そこに、突然、孔子が訪れた。狼狽した伯牛は夜着の下に隠れ、師と顏をあわすことができなくなった。
  • 孔子は、伯牛の気持ちを慮りながら、その手をとり、声をかけた。そして、帰り際に、「天命じゃ、天命じゃ。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、なんというむごたらしいことだろう。」と嘆息した。
  • 伯牛は、孔子の心を理解し、自分の肉体の醜さを恥じる気持ちが微塵も残っていない自分に気づいた。


 「伯牛疾あり」を初めて読んだのは、多分、中学生の頃である。崩れゆく肉体に宿る高潔な心に強烈な印象をもったことを覚えている。先日、書店に行った時、偶然「論語物語」を見つけ、懐かしさのあまり購入してしまった。
 一言一句を噛みしめながら読み進めるなかで、ふと、伯牛は本当にハンセン病だったのかという疑問がわきおこってきた。論語には、ただ一言「疾」としか記載されていない。調べてみると、「疾」とはもともとは急性にかかる病気のことを示している。転じて、急に起こるという意味で「疾風」とか「疾走」と使われるようになった。後代には、「疾」も「病」も同じ意味で使われるようになったが、孔子の生きていた春秋時代では急性疾患の意味で使われていた可能性が高い。
 中国では、それぞれの病気に特有の漢字をあてる。例えば、「瘧」はマラリア、「痢」は消化器病、「瘡」は発疹性疾患である。ハンセン病も中国古代から知られており、「癩」、「厲」、「癘」が使用されていた。*1
 さらに、ハンセン病は慢性経過をたどる疾患であることを考えると、「これを亡わん」と今にも亡くなりそうに嘆くのも腑に落ちない。重症の急性感染症だったとしても十分文意はとおる。
 伯牛の病状について記載された文献は数少ない。史記の仲尼弟子列伝に冉伯牛の病気は悪疾だったという記載がある。この当時悪疾とはハンセン病を指していたということが、ハンセン病説の根拠のようである。いずれにせよ、資料に乏しく真実は不明である。急性疾患だったとしたら、高熱を出し、意識障害もあるような状態で孔子が訪れたことになり、本編のような慢性の経過のなかで自省するという格調高いストーリーは成り立たない。
 下村湖人が「論語物語」を著したのは、1938年である。泥沼化する15年戦争の只中で言論統制が激しかった時代である。この時代は、1931年に制定された「癩予防法」のもと、患者の隔離収容政策が推進された時期である。下村湖人は教師であり、人間の善性を信じ、孔子の行動にその思いを仮託して「論語物語」を書いたのだろう。国の対ハンセン病策に対する異議もあったかもしれない。
 伯牛の病気がハンセン病だったかどうかは、あまり重要な問題ではない。少なくとも、私にとって、ハンセン病の第一印象は本書によって形成された。恐ろしい疾患であるという偏見や差別意識は全く持たずに現在に至っている。多感な時期の思いが今も生き続けている。