北九州爪切り事件の福岡高裁判決文

 北九州爪切り事件の福岡高裁判決文が見つかった。裁判所 | 裁判例情報:検索結果詳細画面には次のような記載がある。

判示事項の要旨
 看護師である被告人が,高齢患者の足親指の爪を爪切りニッパーで指先より深い箇所まで切り取ったなどとして傷害罪を認定した第1審判決を破棄し,被告人の行為は,傷害罪の構成要件には該当するが,正当業務行為として違法性が阻却されるとして,被告人に無罪を言い渡した事例


 全文を読むと、次のような構成になっている。


# 1審判決による本件各控訴事実

  • 被告人は、北九州市のC病院で看護師として勤務していた時、
  • クモ膜下出血後遺症等の治療のため入院中のA(当時70年)に対し、その右第1趾及び右第3趾の各爪を爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人に全治まで約10日間を要する右第1趾及び右第3趾の機械性爪甲剥離の傷害を負わせた(平成19年7月23日付け起訴状記載の公訴事実)」
  • 及び、脳梗塞症等の治療のため入院中のB(当時89年)に対し、その右第1趾の爪を爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人に加療約10日間を要する右第1趾の外的要因による爪切除及び軽度出血の傷害を負わせた(平成19年10月31日付け起訴状記載の公訴事実)」


# 争点

  1. 本件各行為直後の客観的な各爪の状況
  2. 被告人の行為が「爪床から爪甲を離し,爪床を露出させるもの」と認められるかどうか
  3. その行為の結果
  4. 被告人に傷害の故意があるといえるかどうか
  5. 被告人の行為が正当業務行為に当たるか否か


 1審では、「捜査段階で患者の苦痛についてあまり考えられなくなっていたと 供述している」などを理由として、傷害の故意があったと認定したうえで、次のように記載し、正当業務行為に当たらないと認定している。

本件では、被告人は、患者のためのケアであることを忘れて爪切り行為に熱中し、自由に身体を動かすことも話すこともできない患者であるのをよいことに、自らが楽しみとする爪切り行為を行い、痛みや出血を避けるなど患者への配慮をせず、無用の痛みと出血を伴う傷害を負わせており、また、爪床を露出させるほど爪を深く切り取る行為は、職場内でもケアとは理解されておらず、患者家族や上司から説明を求められても、フットケアであるとの説明をすることなく、自己の関与を否定し続けたこと、上司からフットケアをしないように告げられた後にAへの行為に及んでいることなどに照らすと、看護行為として行ったものとはいえず、正当業務行為には該当しない。


# 福岡高裁の判断

  • 傷害行為については、被告人の捜査段階の供述調書は信用することができないことから、これを除く関係証拠によって、被告人の行為態様を認定せざるを得ない。

被告人の上記自白調書は、本件の核心部分である行為態様について、一般的には爪床と生着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」ないし「剥いだ」という表現が用いられている(しかも、繰り返し多用されている)点で、上記自白調書を除く関係証拠により認定できる被告人の行為態様にそぐわない内容になっている。

このような供述調書が作成された事情について、被告人は、いくらケアだと言っても刑事は理解してくれず、これは爪を剥いだとしかいえないなどと言われ、その表現を受け入れ、供述調書の署名も、これをしなければ自分はどうなるか分からず、自分の運命は刑事が握っていると思いサインをした、また、看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしなさい、などと言われ、被告人の行為が爪の剥離行為であると決め付けられ、看護師としての爪ケアであることの説明を封じられた旨を公判で供述している。

  • そこで、被告人の捜査段階の供述調書を除く関係証拠によって、被告人の行為及び結果について検討する。
  • 被告人の行為は、いずれも客観的には傷害罪の構成要件にいう傷害行為といえる。
  • B及びAの各右足親指の肥厚した爪を切って爪床を露出させたことは、被告人がその行為を認識して行わなければなし得ないものであるから、当然に自己の行為を認識しつつ行ったものであり、傷害の故意があると認められる。
  • しかしながら、Aの右足中指の爪を剥がしたとされる行為について、被告人に傷害の故意があったと認定することはできない。
  • 次に、傷害罪の構成要件に該当するB及びAの各右足親指の爪を切って爪床を露出させた行為について、弁護人が主張するように正当業務行為として違法性が阻却されるか否か検討する。


 ここで、本裁判に大きな影響を与えたN医師の証言が紹介されている。

証人N医師は、各種のフットケアに関する文献を検討した上、フットケアは、爪を含む足の変化に目配りをして行うものである。日本ではフットケアに特化した専門資格の創設はなされておらず、多くの病院では、一般の看護師による療養上の世話として担われており、十分なフットケアの質が担保されにくい状況にある。爪切りについては、医師が病変爪やその周囲に外科的処置や薬物処方をする治療行為は、医師の独占業務であるが、看護師は、医師の指示下で診療の補助業務をするほか、療養上の世話として爪切りをする。爪切りはフットケアの一環であり、病変等により肥厚、変形している爪は、布団に引っかけて剥がれ出血したりするなどリスクがあることから、切ったり削ったりしてそのリスクを減じる目的で行われる。肥厚爪や鉤彎爪は、そのリスク回避のため、容易に切り取れる部分まで切り取ることは、療養上の世話としての看護行為として許容できる標準的な手法である。本件でも、Aの右足親指の爪は、白癬菌性の肥厚爪(厚硬爪甲)で爪甲下の角質層も白癬菌感染によって肥厚していたとみられるところ、爪床と爪甲が遊離ないし緩やかな接着があるにとどまり、ニッパーなどで切り進めば、比較的容易に切り崩れ、切り取られて行ったと考えられること、また、Bの右足親指の爪は、爪甲鉤彎症による鉤彎爪であったとみられるところ、隣の指への当たり具合によってその皮膚の損傷を生じる危険性があることから、爪切りの必要と適応があり、黒く変色して強く彎曲しており、爪床からは浮いて組織的には空隙があったと思われ、ニッパーが入りさえすれば容易に切り取られて行ったと考えられる。したがって、これらの爪はケアの必要性が高く、被告人の爪切り態様は一般的に妥当で、個別的にも適切で、微小な出血は医学的には問題がなく、標準的な手法の範囲内である旨を述べる。

N医師は、高齢の入院患者等の爪ケアの必要性が比較的高い患者の医療に携わってきた経験や、これまでの爪ケアに関する文献等の一般的知見も踏まえて鑑定書を作成しており、N医師の鑑定書及び供述は、本件関係証拠上、最も信用性が高い。

被告人がB及びAの各右足親指の爪切りを行ってその爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかったこと、結果的に微小ながら出血が生じていること、Bの右足親指についてはアルコールを含んだ綿花を応急処置として当てたままにして事後の観察もせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもやむを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為として、違法性が阻却されるというべきである。


 以上の検討をふまえたうえで、1審判決を破棄し、被告人は無罪である、という判決が出された。弁護側の完全勝利である。
 あらかじめ検事が描いたストーリーに被疑者を追い込むことが糾弾されている。このことは、過去の冤罪事件と同様である。医療関係者は、医療の不確実性をふまえながら「何が問題か」ということに少しでも近づこうとする。一方、捜査関係者は「誰が責任を負うべきか」という態度で臨む。医療裁判事例を読むたびに埋めがたい溝を感じる。
 多くの医師が本裁判の法廷にたっているが、医学的妥当性をもったN医師の証言が裁判官の判断に強い影響を与えた。医療は、診療やケアの過程の中で、どうしても患者に侵襲を加えざるをえない。自らの医療の妥当性がどこに依っているのか、常に自戒をしなければならないという思いがする。