承久の乱 日本史のターニングポイント

 日本史に関する国民の関心は昔から高く、テレビ、映画、小説などで繰り返し取り上げられている。ただし、戦国や幕末物に人気が集中することへの反省からか、新しい素材や新鮮な切り口を求める傾向が強まってきているように思える。例えば、応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)がベストセラーになったことが象徴的だが、これまであまり注目を浴びることのなかった中世日本史を題材とし、最近の研究成果をふまえわかりやすく解説した新書が脚光を浴びるようになってきている。今回紹介する承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)もそのひとつであり、先月に発売されたばかりである。

 

  

 眼光鋭い怪しげな著者近影と、「陰謀、暗殺、裏切り 第一級の歴史ドラマが始まる!」という扇情的なフレーズを前面に押し出している帯を見るだけで、出版社が売り気満々であることがわかる。読みやすい軽妙な語り口もあり、難解な時代背景と複雑な人間関係があるにも関わらず、内容がスムーズに頭の中に入ってくる。

 

 本書は九章立てとなっている。内容的には、第一、二、四、六章が鎌倉幕府という武士政権の実態を明らかにしたものであり、第三、五章が対抗する後鳥羽上皇の資質とその政策に触れたものである。そして、残りの三章で、承久の乱そのものの経過、後鳥羽上皇の敗因、そして、戦後処理と日本史における歴史的位置づけが述べられている。

 

 特筆すべきは鎌倉幕府の実態を明らかにした部分であり、概略は次のとおりとなる。

  •  幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」だった。鎌倉幕府は、江戸幕府のようなピラミッド型組織ではない。頼朝による土地の安堵という「御恩」に報いるために頼朝の命令のもと戦う「奉公」をする主従契約に結んだ仲間たちが、駿河、伊豆、相模、武蔵の4カ国を中心とした東国に築き上げた安全保障体制であり、東国限定の在地領主の政権だった。
  •  中世武士は、弱肉強食の世界で自分の土地を守るためにすすんで殺生に手を染める荒々しい感覚を持っていた。このため鎌倉幕府では血なまぐさい権力抗争が起きた。そのなかで、最終的な勝者になったのは、父時政を失脚させ、敵対する御家人を滅ぼした北条義時だった。最終勝者となった義時を頼朝の真の後継者と鎌倉武士は認めた。この時、鎌倉幕府は、「頼朝とその仲間たち」による政権から「義時とその仲間たち」による政権となった。
  •  一方、三代将軍実朝の時代には、御家人統制の綻びが出ていた。有力御家人が平然と後鳥羽上皇に仕えるようになっていた。さらに、後鳥羽上皇は、実朝の官位を右大臣まで上げ、天皇を中心とした権門体制に組み込もうとしていた。義時らにとって実朝は、「在地領主による、在地領主のための幕府」を否定しかねない危険な将軍だった。実朝暗殺事件後に源氏直系が根絶やしにされたことも考えると、実朝暗殺事件の黒幕は義時以外には考えられない。

 

 「頼朝とその仲間たち」というとどこかの政党のようであるが、別のところで『ヤクザ映画の名作「仁義なき戦い」に勝るとも劣らない凄まじさ』とか、『頼朝の直属の子分(仲間たち)』という表現を用いていることから類推すると、目的のためには手段を選ばない集団との類似を耳ざわりの良い表現に置き換えただけのようである。権力をめぐって繰り広げられる激しい武力抗争は、確かに似ている。

 承久の乱自体の経過は、あっさりと描かれている。後鳥羽上皇の義時追討命令から敗北までわずか1ヶ月で決着しており、見せ場となる戦闘も瀬田・宇治川の戦いくらいしかない。北条政子の大演説も実は代読であり、最初から東国武士は生き残りをかけた戦いという気持ちで参戦したことが示されている。

 後鳥羽上皇の敗因としては、西国の守護を味方にはつけたが末端の武士までは浸透せず、東国の動員力と比べて大きな差があったことが示されている。さらに、「権威のピラミッド」という身分制に基づく朝廷型リーダーシップが、「御恩」と「奉公」による一対一の関係に基づいた幕府型リーダーシップに劣ったということも示唆されている。

  後鳥羽上皇隠岐配流など三上皇を配流し、官軍に加わった御家人や貴族たちを斬罪に処するなど戦後処理は過酷だったことが示された後、承久の乱の影響がまとめられている。何よりも、朝廷を中心に展開してきた日本の政治が、この乱以後明治維新に至るまでの間、武士が支配する政治へと移り変わったターニングポイントになったことが重要である。さらに、幕府も、自力救済オンリーの「万人の万人に対する闘争」状態を脱し、法による統治と民を慈しむ「撫民」を志向するようになり、「トップとその仲間たち」という体制から成熟していったことも示されている。

 以前は頼朝が征夷大将軍となった1192年をもって鎌倉時代の始まりとしていたが、最近は守護・地頭設置権を認められた1185年が適切という説が有力となっている。しかし、本書が示すように、発足当初は東国政権に過ぎず、全国に支配権が及ぶようになったのが承久の乱以降ということを考慮すると、1221年を時代区分の節目としてもっと重要視して良いのではないかと思う。