「日本辺境論」にみる日本語の特殊性

 内田樹氏の新刊「日本辺境論」を読んだ。

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日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)


 内田樹の研究室の愛読者として、本書の発刊を楽しみにしていた。本書の「はじめに」の部分には次のような記載がある。

日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で私が説くところであります。


 中華思想の対として、辺境人である日本人としての特質が叙述される。他国との比較でしか自国を語れず、自らの外にある「模範」を目指し「学び」の効率化を図ったということが、地政の特徴や歴史的経過とともに分析されている。その上で、肩の力を抜いて、日本の辺境性を生かして日本にしかできないことは何か考えましょうと提案する。相変わらずの軽妙な語り口に魅せられる。


 本書の最後の章「辺境人は日本語と共に」に次のような記述がある。

日本の辺境性をかたちづくっているのは日本語という言語そのものです。

日本語はどこが特殊か。それは表意文字表音文字を併用する言語だということである。

漢字は表意文字(ideogram)です。かな(ひらがな、かたかな)は表音文字(phonogram)です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声を並行処理しながら言語活動を行っている。でも、これはきわめて例外的な言語状況なのです。


 内田樹氏は、難読症ディスレクシア、dyslexia)が日本人には少ないこと、後天的な脳損傷に伴う失読症に「漢字だけ読めない場合」と「かなだけが読めない場合」があること、「マンガ」という表現手段が日本で選択的に進化したことなどを例証にして、日本語の特殊性を論述している。この部分に関し、リハビリテーション専門職として多少の補足を試みる。


 右利きの人では、通常、左大脳半球損傷で失語症(Aphasia)が生じる。損傷部位によって程度は異なるが、音声言語と文字言語の理解と表出に障害が生じる。文字言語の理解面が選択的に障害されるのが失読症(Alexia)であり、失語症の特殊型である。最近見た失読症例では、目で見ても文字は分からないが、指でなぞると理解できるという患者がいた。脳損傷に伴う言語機能障害は奥が深い。
 欧米の言語とは異なり、日本語では文字言語の理解面を検査する時には、漢字とかな両方を調べる必要がある。その際、どちらかというと、かなにより重度の障害が生じることが多い。看護師さんたちがよく間違えるのだが、話すことが困難な失語症患者に五十音版を渡しても利用はできない。
 表意文字表音文字について調べてみると、両者を併用している言語でメジャーなものは日本語しかない。携帯電話のガラパゴス化という概念がある。これは日本人好みの機能が発達しすぎて他国では売れないという意味で揶揄を含んだ表現である。考えてみれば、日本語自体、ウラルアルタイ語族に大別されてはいるが、同じグループに属する他の言語との近縁関係がはっきりしない。しかも、文字言語の標記方式がきわめて特殊である。
 考えてみれば、日本人に生まれて、日本語を母国語として生きるというのは、なかなか大変なことである。その日本人が脳損傷によって中枢性の言語障害を生じた場合、どのようにしてコミュニケーション手段を回復させるかという技法は、他文化圏から直輸入することはできず、日本のリハビリテーション関係者が自ら開発しなければならない。


 言語障害を扱う立場の人間からすると、内田樹氏の主張する日本の辺境性は、地理的・歴史的な産物というよりは、日本語という特殊な言語の影響の方が強いのではないかと考える。
 ところで、内田樹氏の名前は「うちだたつる」と読む。著者の名前からして難読である。