医療の発達と脳性麻痺発生率との関係

 阿久根市長がまたもや暴言を吐いた。

 鹿児島県阿久根市竹原信一市長(50)が自身のブログ(日記形式のホームページ)に「高度医療が障害者を生き残らせている」などと、障害者の出生を否定するような独自の主張を展開している。障害者団体は反発、市議会でも追及の動きが出るなど波紋が広がっている。


(中略)


 竹原市長は取材に対し、「養護学校に勤めている人から聞いた情報をそのまま書いた。事実と思う。障害者を死なせろとかいう話ではない」と説明している。

(2009年12月3日 読売新聞)

http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20091203-OYS1T00198.htm


 市長本人のブログ、http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20091108には次のように記載されている。

 医師不足が全国的な問題になっている。特に勤務医の不足は深刻だ。
医師が金儲けに走っている為だが、この体質を後押ししてきたのが医師会だった。


(中略)


 勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。
しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。


医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。


 周産期医療に関する事実誤認がある。出産を産婆が行っていた時と比べ、障害を持って生まれた子供が増えているという部分である。
 代表的疾患である脳性麻痺の疫学について、北原佶らは次のような趣旨のことを述べている。*1

 1980年代までは、脳性麻痺の発生率は減少傾向にあった。しかし、その後脳性麻痺の発生率は増加し始めている。

  • Takeshitaらによる鳥取県での1955年から1980年までを4期に分け検討した結果*2
    • 1956〜1959: 出生1,000あたり 2.42
    • 1971〜1974: 出生1,000あたり 1.43
    • 1975〜1980: 出生1,000あたり 0.57
    • 1981〜1984: 出生1,000あたり 1.15

 他の地域の調査をみると、1980年代以降は、出生1,000あたり2人前後となっている。


 脳性麻痺発生率の推移を説明する理由としては、つぎのことがあげられる。

  • 初期の発生率現象は、新生児死亡率、周産期死亡率に示されているように周産期の分娩管理の向上、交換輸血、光線療法、輸液等の導入による新生児管理の向上などが指摘されている。
  • 1980年代以降の増加は、低出生体重児からの発生率の上昇によるものとされる。


 超低出生体重児における脳性麻痺発生率に関係する因子として、新生児集中治療部門(NICU)の施設規模と出生体重が指摘されている。施設規模が大きいAランクの施設ほど死亡率が低く、脳性麻痺の発生率も低くなっている。十分な新生児医療を受けることができない低出生児の存在は、周産期医療における新生児の脳損傷に結びつく。それゆえ、脳性麻痺発生の予防のためにも新生児医療体制の充実は、今後も大きな課題である。


 かつて脳性麻痺の3大原因として、仮死、核黄疸、未熟児があげられていた。周産期・新生児期の管理の進歩により、核黄疸は激減、仮死も減少した。医療の進歩で、産婦の死亡率も新生児の死亡率も減り、同時に正期産児から脳性麻痺になる可能性が低下した。しかし、産科・新生児医療が医療崩壊の危機にさらされる中、安心してお産ができる環境が各地から失われつつある。
 同じことが他の医療分野にも言える。日本の平均寿命が世界一と言われているのは、国民皆保険制度が確立し、高い水準の医療が普及したからである。その日本の医療制度が、長く続く低医療費政策のもと、各地で破綻しかけている。


 調べてみると、阿久根市は人口が約24,000人で、中心となる病院は出水郡医師会立出水郡医師会広域医療センターであるが、産科はない。市内には、開業医の産科が1ヶ所しかない。どうやら、阿久根市長は市の医療水準が今後も悪化すると腹をくくっているようだ。「意志を持って悲しみを引き受けなければならない」というフレーズは、市民に低い医療水準を受容させようとする考え方が端的に現れたものである。安心して子どもを産むことができない町になりつつあることを、市民は覚悟しなければならない。