ウェブ進化論の私的影響
不特定多数無限大の良質な部分にテクノロジーを組み合わせることで、その混沌をいい方向へ変えていけるはずという思想を、この「力の芽」は内包する。そして、その思想は、特に若い世代の共感をグローバルに集めている。思想の精神的支柱になっているのは、オプティミズム(楽天主義)と果敢な行動主義である。(表紙より)
- 作者: 梅田望夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/02/07
- メディア: 新書
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この本に出会ったのは、昨年6月だった。神戸のリハビリテーション医学会の帰りにバス停近くの書店で買い、二日酔いながら時を忘れて飛行機の中で読みふけった。
パソコンを使い始めてから14年になる。
最初に購入したPower Macintoshは当時30万円以上もした。貧乏研修医にとっては手痛い出費だったが、すぐに元がとれることに気づいた。文書も、ワープロ専用機で作成するのと比べ動作が軽快で、時間の節約となった。
統計も以前は電卓でするものだった。簡単なt検定でさえ、やたらに時間がかかった。入力を一つ間違えるだけで、結果が異なった。それが、データベースさえしっかりと作れば、クリック一つで多変量解析まで簡単にできるようになった。当時購入したStatViewは、今も元気に活躍してくれている。おかげで、OSX 10.3.9から Leopardへの乗り換えを未だにためらっている。もはやパソコンなしでの仕事は考えられない。
「ウェブ進化論」で提起されているインターネットの「あちら側」と「こちら側」という分け方からすると、私は典型的な「こちら側」の利用者だった。そもそも、インターネット自体がそんなに普及していない時代だった。
インターネットの「あちら側との出会いは、PubMedからだった。
医師になりたての頃は、医学文献検索は分厚いIndex Medicusを手当たりしだいひっくり返したうえで、検索式を書いて図書室の司書の方にお願いするものだった。長大な結果リストの中で、どれが玉でどれが石だがわからず、お金の許す範囲で文献コピーを行っていた。地方病院と大学病院とでは、図書館の「品揃え」が全く異なり、明らかな情報格差が存在していた。
今は、PubMedという無料のデータベースにどこからでもアクセスができ、しかも、エビデンスが高い文献がすぐにヒットする。インターネットの「あちら側」にある巨大な図書館のおかげで、大病院で勤務していないというデメリットはなくなった。最近は、論文それ自体をネット上で見ることもできるようになりつつある。
しかし、これも「あちら側」に蓄えられていた情報を引き出すという作業にすぎず、能動的な情報発信を行っていたわけではなかった。
Web2.0とは何だ。Googleは本当に凄いのか。ロングテール現象とはどういう意味を持つのか。そして、ブログを書く人間がどうして増殖したのか。興味があったが実感がわかず、日常生活にもさして影響を及ぼさず、気にはなるが「蚊帳の外」に置かれた気分で過ごしていた。その時に、「ウェブ進化論」に出会った。
梅田望夫氏は、名前をつけ、分析し、わかりやすく提示することが得意である。
- 次の10年の3大潮流
- ネット世界の3大法則
第1法則: 神の視点からの世界理解
第2法則: ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
第3法則: (≒無限大)×(≒ゼロ)=Something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積
- Web2.0とは
「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的サービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」がその本質
などなど。
「ウェブ進化論」第4章 ブログと総表現社会では、次のような記載がある。
- 量が質に転化した
- ITの成熟により「書けば誰かにメッセージが届くはず」と意識が変わった
- ブログとは、『世の中で起きている事象に目をこらし、耳を澄ませ、意味づけて伝える』というジャーナリズムの本質的機能を実現する仕組みが、すべての人々に解放されたもの
- ブログは個にとって大いなる知的成長の場である
- 自分がお金に変換できない情報やアイデアは、溜め込むよりも無料放出することで(無形の)大きな利益を得られる
さらに、梅田望夫氏は、ブログこそが自分にとっての究極な「知的生産の道具」かもしれないと述べ、その効用を5つにまとめている。
(1)時系列にカジュアルに記載でき容量に事実上限界がないこと
(2)カテゴリー分類とキーワード検索ができること
(3)手ぶらで動いていても(自分のPCを持ち歩かなくとも)、インターネットへのアクセスさえあれば情報にたどりつけること
(4)他者とその内容をシェアするのが容易であること
(5)他者との間で知的生産の創造的発展が期待できること
そして、ブログを「知的生産の道具」として使う場合の、「歩み寄り方」を次のように記載している。
(1)対象となる情報源がネット上のものである場合には、リンクを張っておくだけでなく、できるだけ出典も転記し、最も重要な部分はコピー&ペーストすることである。簡単な意見や考えもあわせて書けばさらにいい。
(2)対象となる情報源がネット上のものでない場合(デジタル化されていない本や雑誌の場合)は、出典を転記し、手間は少しはかかるが、最も重要な部分だけを筆写することである。なぜ、筆写したかもきちんと書けば、筆写部分を「引用」扱いでできる。筆写部分の分量を常識的な線に押さえれば、著作権のことを心配することはない。筆写の割合が多く、情報の公開にそれほどの意味を感じない場合は、ブログ自身を非公開で使えばいい。
刺激的な文章が並んでいる。どうしてお前はブログを書かないのか、と言われているようでならなかった。
しかし、実際に行動に移すまでにはもう少し時間がかかった。何を書けば良いのか、忙しい時間をやりくりしてまで書く価値があるのかなど、もやもやした気分を引きずっていた。
そこに、回復期リハビリテーション病棟への成果主義導入の問題が持ち上がった。ネットをさまよっても、誰も深く掘り下げて論評はしていなかった。日常生活機能指標とは何ものなのか。リハビリテーションとは異質のものを無理やりに飲み込まされた嫌な思いがしてならなかった。専門家として黙っていて良いのかという思いが強くなり、気がついたらブログを書き始めていた。「誰も批判をしないのなら、自分がする。」、そういう気分だった。書きながらブログのルールを覚えた。他のブログを見ながら、ネット作法を真似した。
走りながら考える。考えながら行動に移す。人見知りが強く、引っ込み思案な自分とは思えない行動を現在行っている。「書けば誰かにメッセージが届くはず」、ブログこそが自分にとっての究極な「知的生産の道具」かもしれない、という「ウェブ進化論」の主張を実体験として感じている。
「こちら側」での知的生産 → 「あちら側」からの情報収集 → 得意分野における能動的表現者。テクノロジーの進歩にあわせ、自分が少しずつ適応している。
正直、ネットの負の側面を意識せざるをえない。いい気になっているとしっぺ返しを受けるような気がする。
それでも、ウェブ社会の本当の大変化がこれから始まるとしたら、ネットの開放性と善の部分が世の中を少しでも良い方向に変えることが可能ならば、「総表現社会の中間層」という自覚を持った参加者として行動することで、自分自身の可能性を広げることができるのではないかと実感している。
「ウェブ進化論」は、情報化社会における私の行動様式を変える本となった。