天平時代のパンデミック

 黄金週間だが、どこにも行かず"Stay Home"中である。折角なので自宅にある本、特に感染症と歴史に関する書物を読み返している。

 

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

  • 作者:酒井 シヅ
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫
 

 

 「病が語る日本史」(酒井シヅ著)は、病気という視点で日本史を見つめ直したものである。様々な疾患が取り上げられているが、特に感染症に関する記述が充実している。

 代表的な疫病である天然痘に関しては、天平時代における大流行にページを割いている。なお、以前、奈良時代政権交代というエントリーを上げた時に年表をまとめたので、そちらも参照にして欲しい。

 

 第2章古代人の病を読むと、欽明天皇7年(546年)から天然痘の大流行が繰り返されていたことがわかる。藤原京から平城京への遷都(710年)の理由のひとつとして、文武天皇2年(698年)から15年ほど続いた疫病の流行があげられている。

 第1部第3章疫病と天皇では、律令体制を作り上げた藤原不比等の死も天然痘の疑いが強いと指摘している。養老4年(720年)、「疹疾漸く留まりて、寝膳安からず」(発疹がようやく治ったが、食欲がなく、不穏な状態であった)と続日本紀に記載された日のわずか2日後に不比等は亡くなっている。

 天平7年(735年)には、新羅からの使節入国、遣唐使の帰国など海外との往来が盛んだったが、太宰府管内から疫病が流行し始めた。続日本紀では、「全国的に豌豆瘡(裳瘡)を患って、若死にする者が多かった」とある。

 さらに、天平9年(737年)、畿内にも豌豆瘡が広がり、朝廷の役人にも流行し始めた。藤原四兄弟も、4月17日に房前(北家、57歳)、7月13日に麻呂(京家、43歳)、7月25日に武智麻呂(南家、58歳)、そして、8月5日に宇合(式家、44歳)が亡くなった。9月28日、公卿の中でわずかに生き残った鈴鹿王、橘諸兄、多治比広成を核に新政権が発足した。現代に置き換えると、閣僚のほとんどが疫病に斃れ内閣総辞職をせざるをえなくなったほどの衝撃である。この状況を悲観した聖武天皇は、短期間の遷都を繰り返し、大仏建立に推し進めることになる。天平時代のパンデミックが、古代の日本において大きな転換点になったことは間違いない。

 

 本書では、マラリア寄生虫病、インフルエンザ、ハンセン病コレラ、梅毒、赤痢、麻疹、結核、ペストなど様々な感染症が日本史に与えた影響が紹介されている。歴史を振り返る時、政治を動かした人物だけを見るのではなく、疾病、飢餓、自然災害など庶民の生活に関わる事象が通奏低音のように響きながら歴史の転換期に多大な影響を与えていたことを忘れないことが大事である。

 なお、第2部第7章天然痘と種痘でも、天然痘が再度取り上げられている。幸いにも、天然痘(痘そう)とはで記載されているように、「天然痘ワクチンの接種、すなわち種痘の普及によりその発生数は減少し、WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言を行った。以降これまでに世界中で天然痘患者の発生はない」という状態になっている。麻疹やペストを含め、かつて多数の死者を出した疫病がコントロールされつつある時代に生きていることに感謝しなければならないと、歴史を振り返るたびに思う。