モラルの起源

 今回は、クリストファー・ボーム著「モラルの起源」を紹介する。本書は、進化人類学者の著者が、「更新世後期タイプの(Late Pleistocene appropriate)」狩猟採集社会に住む「LPA狩猟採集民」の研究を軸に、道徳、良心、利他行動はどのように進化したのかを述べた書物である。

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか


 著者の主張をまとめると以下のとおりになる。

  • 人類の祖先、「原初のチンパンジー属」の「利他指数」は、今日のボノボチンパンジーから推定されるのと同じくらい低かった。しかし、集団による社会統制の能力が、初歩的ではあるが、顕著に存在していた。この能力はもっぱら、すぐに性向がばれて怒りを買うタイプのフリーライダー(利己的で競争心が強く、他者を利用する乱暴者)に対して発揮されていた。彼らの自制は報復への恐怖と服従の能力のみにもとづいていた。【原初のチンパンジー属の社会統制】
  • 約25万年前、大きな脳を持つ初期のホモ・サピエンスが登場してかなり後になって、積極的に大型の有蹄動物を狩りを始めた頃に、良心の進化が始まった。集団内の人々が効率よく狩りをするためには、かなり平等に肉を分け合う必要があった。この効率の良さは、気候の変化で地球の環境が厳しくなったとき、集団や地域のレベルで生存にとって不可欠だった。【集団による狩りが良心の進化のきっかけ】
  • 人間がひとたび道徳的になると、ふたつの新しいパターンが発展した。
    • ひとつは、利他的なものに有利な「評判による選択」である。生物学者のリチャード・D・アレグザンダーは「間接互恵」という理論を提唱した。人と連帯できる人は、そうでない人よりもパートナーとして選ばれやすいがゆえに、より子孫を残しやすくなる。このことが「血縁以外への寛大さ」を支える主要メカニズムと考えられる。LPA狩猟採集民のどの社会においても、血縁以外の寛大さが好まれる。また、血縁者に対する身内びいきの援助も、家族の価値を称えるものとしてどの社会でも一致して好まれている。協力、分配などの項目も好まれており、人間は必ず寛大さに関心があるということが広く実証されている。また、利他性の高いグループのほうが、同情や寛大さを示さず、協力的でないグループよりも、子孫が生き延びやすくなることが、利他性を広めることに役立ったと思われる。【評判による選択】
    • もうひとつは、フリーライダーの抑制である。フリーライダーを積極的に処罰する社会的抑制により、利他活動をより効果的に支えられるようになる。特に問題となるフリーライダーは自分がほしいものをもらうだけのアルファ(ボス)タイプの乱暴者であるが、泥棒タイプやいかさま師タイプも標的となる。LPA狩猟採集民の平等主義の進化を対象とした著者の研究では、乱暴者になろうとする人間を、コミュニティーが積極的に、場合によってはかなり暴力的に取り締まることがわかっている。社会統制の手段のなかには、死刑、追放、徹底した仲間外れが含まれており、これらの手段は遺伝子プールに影響を与えたと予想される。力を奪われたアルファは集団の女たちを生殖面で支配することは難しくなり、一夫一妻制の誕生や発展に道を開いた。良心の誕生するきっかけはグループによる社会統制であり、十分な装備で大型の獲物を狩る集団が怒って「逸脱者」を処罰することによって「社会選択」と呼べるものが生じた。なお、乱暴者も、みずからの競争する傾向を社会的に受容させる方向へ導きながら、処罰されそうな場合には表に出さないように自制できるならば、適応度を上げることが可能であり、フリーライダーの遺伝子は消え去ることはなかった。【処罰するタイプの社会選択】
  • 生物学者のロバート・トリヴァースは互恵的利他行動のモデルを作り、長期的な「見返り」の対称性が見られることを示した。互恵的利他行動とは、あとで見返りがあると期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を即座の見返りなしでとる利他的行動のことであり、「血縁以外への寛大さ」を理論的に説明できる点で魅力的なものとなっている。しかし、この理論は、血縁関係にないペアが長期にわたってずっと協力し、互いのコストがほぼ釣り合っていて、大きないかさまがない場合に限られるため、日常的な行動との一致という点で説得力はない。【互恵的利他行動モデルの限界】
  • 進化的良心とは、「耐えがたいリスクを負わずに自分自身の利益をどこまで提供できるかを静かにささやく声」である。最もよく適応した良心は臨機応変なものである。トラブルを避けながらうまく生きていけるようにしながら、あまり重要ではないルールをうまく省いて得をすることもできる。社会的によく順応した人間であるわれわれは、良心には完全に支配されていない。むしろ、良心から通知を受け、効果的に、しかし柔軟に、抑制されている。われわれは、競争社会で成功を収めるためにちょっとした道徳的妥協をしながら、それでも基本的にそれなりの評判を維持し、深刻な社会的トラブルを避けている。【良心は臨機応変
  • 良心をもつというのは、コミュニティの価値観に個人的に共鳴することであり、これはつまり、自分の集団のルールを内面化することだとも言える。しかも、感情面でそうしたルールに結びつくのでなければならない。破ると恥ずかしさを感じ、従っていると自己満足を覚え誇らしく思うようにならなければならない。【良心の内面化】
  • 前頭前皮質に物理的ダメージを受けると、道徳観念が損なわれ、社会生活を送ろうとしても難しくなる。また、サイコパスという、生まれつき社会のルールを認めて内面化するのに必要な、感情面の結びつきを持たず、他人への共感も欠いている人もいる。MRIの研究では、サイコパスの傍辺縁系に明らかな異常があった。【サイコパス(良心のない人)の存在】
  • 初期のホモ・サピエンスが含まれる「原初のチンパンジー属」の対立をもたらすものとして、なわばり意識、よそ者嫌いがある。現代の狩猟採集民、さらに言えば人類全てに見られるよそ者嫌いの傾向に関して、注目すべき点のひとつに、「自分たちの道徳律が当てはまるのは自分の集団だけ」というものがある。よそ者に対する恐怖や侮蔑を道徳的に説明する「道徳化」というものをしだすと、自民族中心主義が生じる。この文化的に洗練された動機づけは、従来型の熾烈な戦争や征服、そしてとりわけ破壊的な大量虐殺を支持する手助けをした。【なわばり意識、よそ者嫌い】
  • われわれの最近の祖先は、第一に利己主義者で、第二に身内びいきだったが、遺伝的本性としてかなり利他的でもあった。その結果生じた血縁以外への寛大さが、具体的な公益のビジョンを心に描いて協力する必要が生じたときに、文化の土台となる重要なものをもたらした。間接互恵のシステムは、長年にわたり実に見事に実に柔軟に役立ってきた。人類の知力にこうした社会関係における建設的な側面があるために、われわれの進化のプロセスは特異なものとなった。【利他性が人類進化のプロセスに影響】
  • 平等主義は、乱暴者を用心深く積極的に抑え込むことによってしか維持できない。さまなければ、彼らはフリーライダーとして、自分より利己的でなく力の劣る他者から、公然と自分の欲しいものを奪う。LPA狩猟採集集団とは違い、現在の世界は決して経済面で平等主義ではない。我々の世界は大きすぎ、多様すぎて、危険すぎる。しかし、われわれは皆、向社会性へと方向づけられた基本的な道徳的能力を共有している。より危険の少ないグローバルな道徳的コミュニティを作り出す方向に進めるようになった場合に、この能力を必ず使うことになる。【現代社会における基本的道徳能力への期待】


 本書は、人間の本性に関するかなり刺激的な内容を含んでいる。
 人間は、まずエゴイストであり、次に身内びいきであり、そして、かなり利他的である。加えて、道徳感情に裏づけられた攻撃的な性質も持っている。人間のモラルには、利他性と攻撃性の二面性がある。
 人間を特徴づけている寛大さの問題を考える時、利己的に競い合う個体のなかで利他的なものが多数を占めていく「利他行動のパラドックス」を解決しなければならなくなる。利他的な志向を持つものが遺伝子を残すうえで有利となる可能性を明らかにしようとさまざまなモデルが考えられきたが、アレグザンダーの提唱した「間接互恵」=「評判による選択」が最も有力であることを、著者は繰り返し強調している。と同時に、フリーライダーを積極的に処罰する社会統制も大きな役割を果たしたことも力説している。
 利他性とともに発展してきたフリーライダーへの処罰感情は、なわばり意識やよそ者嫌いの感情とあわせて、人間の攻撃的な面を助長してきている。宗教の名のもとに行われる戦争が最も悲惨である。プロテスタントカトリックの争いに端を発した三十年戦争の結果、ドイツの人口は約1600万から三分の一の600万まで減少したと言われる。イスラム教とキリスト教の争いは、形を変えながら現代まで続き、現代社会に深刻な影を落としている。インターネットの普及とともに、匿名者の「正義感」から炎上現象が生まれきている。
 一方、人間の協力行為は、小さな集団から生まれ、次第に規模を大きくし、近代国家のなかで社会保障などの形で制度化され、さらには、国の枠を超えて広がってきている。東日本大震災における国際的な援助活動は、その典型である。
 利他的でありながら、攻撃的であるという人間の心理がなぜ形づくられてきたかについて、本書は重要な示唆を与えてくれる。感情面に裏打ちされた利他的行動をするという道徳的な能力を人間本来の性質として持っていることを認識すると同時に、正義感の暴走による攻撃行動が悲惨な結果を招きかねないことを意識することが、現代社会に生きる人間として求められることではないかと思う。