山本覚馬失明の原因は白そこひ

 先日放映されたNHK大河ドラマ「八重の桜」にて、主人公八重の兄山本覚馬が医師の診察にて白そこひと診断されていた場面があった。白そこひとは白内障のことである。禁門の変(1964年)での眼外傷が原因と暗示されている。Wikipediaを見ると、山本覚馬は1928年生まれであり、禁門の変当時まだ36歳である。なぜ、このような若年で白内障を起こしたかが問題となる。
 「八重の桜」の医学考証は、医学史で有名な酒井シヅ先生が行っている。同氏の著書「病が語る日本史」にその理由が示唆されている。

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

病が語る日本史 (講談社学術文庫)


 本書第2部「時代を映す病」の「二 江戸時代に多い眼病」に次のような内容が記載されている。

  • 江戸時代に来日した西洋人医師は、日本に眼病が多いことに驚いている。
  • 幕末に来日したオランダ海軍医師ポンペは、「世界のどこの国より、日本ほど盲目の人が多いところはない。その理由は、眼病の治療法をまったく知らないことに大半の原因がある。」「白内障もしかり。」「盲人の大半は治療法の誤りで生じたものである。」と回顧録に記している。
  • ポンペは眼科の公開手術を行ったが、長崎住民の8パーセントに眼病を患っているので、教材に不自由することはなかった。
  • 発展途上国ではいまも眼病が多く、失明率が高い。
  • 鑑真和上は、視力が徐々に衰えていき、眼の治療にすぐれた胡人に出会い、治療を受けたが、最後には失明した。63歳の年齢と症状の経過より老人性白内障であったと考えられる。
  • 明治以降、トラコーマが流行し、届け出伝染病となった。トラコーマは戦後かなり後まで蔓延していた。治療法が進んだこともあるが、入浴、手洗い、清潔な衣服、清掃など個人の生活環境が向上し、衛生が徹底してきたことが病気の減少につながったと考えられている。


 シーボルト事件の逸話も記載されている。

  • シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開き、全国のから集まった医師に西洋医学を教えていた。土生玄硯ら眼科医に、動物の白内障の手術をして見せた時、散瞳薬を使った。土生は熱心に頼み、シーボルトから散瞳薬を教えてもらったが、そのお礼に、将軍から下賜された葵の紋付の衣服を渡した。シーボルトはその他幕府が譲渡を禁制とした品々を入手した。しかし、帰国の際、荷物を載せた船が遭難し、所持品が海岸に打ち上げられた。このことがきっかけでシーボルト事件が起こり、土生玄硯は投獄された。
  • 土生玄硯は、弟子の伊東昇迪(米沢藩藩医)をシーボルトに引き合わせ、眼科を学ばせた。シーボルトの帰国間際に白内障の手術セットを譲りうけたが、シーボルト事件の影響で眼科機器は使われることなく、蔵の奥深くにしまわれた。


 簡単にまとめると、衛生環境や治療技術の低さもあり、日本では眼病が蔓延し、失明するものが多かったということになる。残念なことに、シーボルト事件が起こり、西洋の進んだ眼科治療が普及することが妨げられた。この事件がなければ、山本覚馬は早く治療を受けることができ、失明せずに済んだかもしれない。


 「病が語る日本史」には、その他にも興味ある話題が満載である。昨年の大河ドラマの主人公平清盛が亡くなる原因となったのは、マラリアであったことも示されている。日本史好きの医師にとっては欠かせない本といえる。