ゼロリスク幻想が生まれる背景とリスクコミュニケーション

 ゼロリスクについて調べていたら、「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 / 山口浩 / 経営学 | SYNODOS -シノドス-というブログエントリーを見つけた。原発事故後のソーシャルリスク管理についてまとめたものだが、医療現場のリスク管理につながる内容がある。一読の価値がある。気になった部分をメモとしてまとめる。なお、ヒューリスティックという耳慣れない言葉が出てくるが、関連エントリーを参考にしていただきたい。

関連エントリー

  • リスクマネジメントの専門家は、リスクをその発生確率と損害の大きさという2つの評価軸でとらえる。しかし、一般の人々は、「恐ろしさ」と「未知性」という2つの要因で認知する。
  • 人々がものごとに対する態度を決定する際のプロセスに関して、「二重過程モデル」という考え方がある。情報を充分に分析して態度を決定する「システマチック処理」と、情報発信者への信頼や接触する情報の量などの周辺的な要素にもとづいて態度を決定する「ヒューリスティック処理」の2つのやり方がある。一般の人々、あるいは専門家でも専門以外の分野については、手間のかかるシステマチック処理をわざわざ行う動機もなければ、そのために必要な知識もないことが多いから、自然とヒューリスティック処理に頼ることが多くなる。
  • 人々が「ゼロリスク」を求めるのは、彼らが非合理的だからとはかぎらない。たとえばあるリスクについて、回避のコストが「ゼロ」である場合、すなわち、代わりとなるゼロリスクないしリスクが充分に低い選択肢があって、それを簡単に入手できる場合には、たとえ小さなリスクであっても、わざわざ好き好んで受け入れる者は少ない。
  • 一方、生産者や販売者は、「他の選択肢」に急に乗り換えることはできないから、販売が滞れば、一気に窮地に陥る。このような状況があれば、生産者や販売者、あるいは政府は、ある製品やサービスが「ゼロリスク」であるというメッセージを発信しなければならなくなる。
  • すべての商品・サービスについて、一般の人々に対してそのリスクを正確・詳細に説明し、きちんと理解してもらうように務めたらどうかというと、なかなかうまくはいかない。彼らにその情報の意味を「わざわざ」考え理解しようとする動機はない。リスクが「ゼロ」でないということはリスクがある、とみなす方が、少なくとも一般的には楽だ。自ら情報を検討して判断する意思や能力ともたない人々は、リスクを管理する者に対する信頼などをヒューリスティックとして判断する。
  • 「ゼロリスク幻想」とは、客観的な意味でリスクが存在しないことを求めるという意味ではなく、事故を起こさないよう最善の努力をするであろう相手を信用するという意味であり、そのなかでの「ゼロリスク」は、ヒューリスティック処理に必要な「信頼」を醸成する前提として共有されている(と一般人が信じる)価値観である。「ゼロリスク」(おそらく「安全・安心」もそうだろう)は、それ自体がリスクコミュニケーションにおける一種のヒューリスティックなのだ。
  • ゼロリスクが求められているという「ゼロリスク幻想」にとらわれていたのは、一般の人々というよりむしろ、「専門家」の側に属する東京電力や政府の方だったのではないか。
  • ヒューリスティック処理を行う一般の人々とのコミュニケーションは、詳細な情報よりも、共通の価値観をもつと思われる相手への共感を通じて成立する。難しいことはわからないがとにかく「安全・安心」なら受け入れるという人々へのもっとも効果的な回答は、「自分たちは信頼に足る」というメッセージだ。そしてそれは、より積極的な情報公開の姿勢によって裏づけされる。
  • 現在のように、リスクコミュニケーションが「ゼロリスク」というメッセージへの共感によってつくられた信頼を介してなされていた場合、事故の発生は、その信頼自体を破壊してしまう。
  • 事故後のリスクコミュニケーションは著しく困難になってしまう。こうした信頼はいったんこわれてしまうと再生がなかなか難しいが、時間をかけて、「ゼロリスク」に依存しない信頼の醸成をめざすべきだろう。今回の場合、これが今後の大きな課題となるのではないか。
  • ソーシャルメディアの時代である現在であれば、外部の意欲と能力ある人たちに、そうした「信頼」の中継地点となってもらうことが有効かもしれない。破壊されてしまった電力会社への信頼の代わりに人々の信頼の「ハブ」となって、リスクコミュニケーションを「中継」してくれる人たちとのソーシャルネットワークではないだろうか。


 「パターナリズム(父性主義)」という言葉がある。難しいことは理解しなくても良いから医者を信じてついてくれば良いという考え方である。しかし、重大な医療事故が少なからず生じていることが明らかになる中、「パターナリズム」に対する批判が強くなり、「インフォームド・コンセント(十分な説明と自己決定の尊重)」が医療現場の常識となってきた。ただし、「インフォームド・コンセント」とは、説明をし同意書をとることだという誤解も生まれている。書類の山に埋もれている医師からは恨み節も聞こえてくる。
 医療者は、信頼される「ハブ」としての機能が求められていると考えると、気持ちは楽になる。普段から丁寧な説明に心がける。有害事象が起こったとしても、不都合なことを隠さないという情報公開の姿勢を貫き、その時点で最善と思われる対応をすることの積み重ねが信用を生む。


 東日本被災地における様々な風評被害が生まれている。陸前高田薪大文字送り火問題、震災がれき処理問題、農産物・水産物の安全性など、気が重くなる課題が次から次へと生じているが、ひとつひとつ丁寧な情報公開によってのみ解決の道がつくものと覚悟を決めるしかない。