胃瘻に関する理解が不十分なまま書かれた記事

 勉強不足のまま、自分が何を言いたいかわからずに書いている記事の典型である。

 口から食事をとれなくなった時、胃につながる管をつけ栄養補給する「胃ろう」。鼻から管を通す方法に比べ患者の負担が小さいといわれる一方、「一度つけたら外すのは難しい」との指摘もある。老親を介護する時、医師から胃ろうの取りつけを求められ、戸惑う家族は少なくない。胃ろうをつける時に知っておきたい背景や知識をまとめた。【有田浩子】


(中略)


 その後、医師や看護師は「鼻から管を入れ続けているのは本人にとってつらい」などと、胃ろうを取りつけるように繰り返し勧めるようになった。ものを飲み込む「えん下」の機能を調べたところ、液体も固体も飲み込むことができた。しかし、病院側は「99回成功したとしても1回でも誤えんがあってはダメだ」と説明して、口から食べる訓練をしようとしなかった。

http://mainichi.jp/select/science/news/20110517ddm013100002000c.html


 胃瘻の「瘻(ろう)」は穴という意味の医学用語である。お腹の皮膚の上から胃に向けた作った穴という意味である。瘻孔という医学用語もあるが、「瘻」も「孔」も両者とも穴を指し示しており、同じ性質の言葉を重ねただけである。
 胃瘻の問題について考える時、はずしてはいけない課題が3つある。栄養管理、摂食・嚥下リハビリテーション、医の倫理である。
 栄養管理の重要性が認識されてきている。日本では、病院機能評価機構の項目として取り上げられ、診療報酬や介護報酬で評価されるようになってから急速に普及が進んでいる。栄養サポートチームが各病院で立ち上がっており、旺盛な活動を行っている。栄養管理の基本的な考え方として、腸管に問題がなければ、できる限り腸管を使った栄養管理を行うことが推奨される。したがって、脳血管障害のような神経疾患において経口摂取ができない場合には、経鼻経管栄養が第一選択となっている。長期間経口摂取困難と判断された場合には、胃瘻造設や間歇的経管栄養法の適応が検討される。
 摂食・嚥下リハビリテーションの普及も目覚ましい。嚥下障害の病態についての理解が深まり、嚥下造影や嚥下内視鏡などの十分な評価な評価を行いながら、経口摂取再獲得を目指した取組みが取り組まれている。食べられるか否か、という二者択一ではなく、経管栄養を行いながら楽しみのための経口摂取を目指すという目標設定をする場合もある。この場合、経鼻胃管よりは胃瘻の方が口から食べる訓練が明らかに行いやすい。
 高齢者の終末期医療における胃瘻造設の是非も論議されている。非がん疾患においては、終末期の定義は難しい。進行性疾患、特に、アルツハイマー認知症レビー小体型認知症のような場合、自己決定権の行使が難しい。食べられなくなったから胃瘻を造設するという判断に対して異論が出されている。しかし、経口摂取不能=終末期という概念に対しては「みなし末期」ではないかという強い批判がある。確かに、原疾患の治療を行えば、再び口から食べることができる場合も少なくない。長期的な経過を把握し、ご家族のご意向を確認したうえで、飢餓や脱水による苦痛を抑えながら、安らかな最期を迎えることを援助することは、倫理的判断と終末期医療に関する知識と技術を要する。
 胃瘻は、治療手段の一つであり、手術や薬物療法と同様、適応を見極めて実施すべきものである。他の治療法、特に摂食・嚥下リハビリテーションとの併用のもと行われることが望ましい。栄養管理と摂食・嚥下リハビリテーションは、車の両輪のような役割を担っていると考えた方が適切である。胃瘻を積極的に造設している医師は、脳血管障害に伴う重度嚥下障害の場合、できる限り早期に胃瘻造設を行うべきだという主張している。しかし、安易に胃瘻造設が行われると、食事を摂らないことにより口腔環境が不良となり、かえって生命予後が不良となるという報告もある。
 紹介した記事のどこにも、栄養管理の重要性は指摘されていない。摂食・嚥下リハビリテーションに関しては、「胃ろうは生活の自立度を上げるのに有効。安易な取りつけがないとは言わないが、課題はむしろ、その後のリハビリテーションだ」という発言が紹介されているだけである。胃瘻を作る人、リハビリテーションを行う人が見事に分離されている。倫理問題については無定見として言いようがない。基本的認識も間違っている。誤嚥をしても肺炎が必ず発症する訳ではない。防御機能が保たれていると、むせながらも経口摂取が可能である。むしろ、むせがない嚥下障害の方が肺炎発症のリスクが高い。
 紹介されている事例は、実に気の毒である。基本的な楽しみである経口摂取が、医療者の無知のために奪われている。摂食・嚥下リハビリテーションの普及は、日本ではかなり進んでいる方だと聞いたことがあるが、まだまだ不十分であることをあらためて認識した。