称徳天皇の夢の跡、西大寺

 室生寺から、バス、近鉄を乗り継いで、大和西大寺駅に向かった。



 駅では、せんとくんが迎えてくれた。記念写真を撮る親子連れが目立つ。カワイクないという当初の評判とは裏腹に、人気を集めていた。


 平城京跡に向かう人の波とは逆に、私は、¼‘厛に向かった。この際だから、ツアーで回るような大社寺ではなく、滅多に行かないような小さな寺院を訪れることに決めていたからだ。目的地は、駅から徒歩3分というアクセスの良い場所にあった。





 ここが入り口と思うような小さな門を抜けると、意外に広い境内が広がっていた。入ってすぐ右手に四王堂があった。
 そもそも、西大寺称徳天皇が内乱が続く都の平和を願って、金剛四天王像を造ることを発願したことから始まる。その後、780年まで東大寺にならい造営が進められ、数多くの堂舎が競い立つようになっていた。しかし、平安京遷都が行われた後、再三の災害にみまわれ、衰退したという歴史がある。鎌倉時代の中頃になって、名僧と呼ばれる叡尊真言律宗の寺として再建した。
 この四王堂は、創建当初の由来を伝えるものである。残念ながら、現在の建物は江戸時代の再建である。






 奥に進むと、右手に本堂、正面に愛染堂、そして左手に東塔跡が見えてくる。本堂、愛染堂も江戸時代の建造物である。なお、本堂は重要文化財に指定されている。
 仏像群の多くは鎌倉時代の作であり、重要文化財に指定されている。唯一、四王堂にある四天王立像に踏みつけられている邪鬼のみが創建当初のものである。
 観光コースからはずれていることもあり、観光客もまばらであり、一つ一つの仏像を間近で鑑賞することができた。ただし、奈良の他の社寺と比べ、どうしても地味な印象がぬぐえない。
 西大寺称徳天皇を失った後、強力な庇護者をなくした。また、創建当初の実力者、道鏡も後ろ盾をなくし、瞬く間に政治生命を断たれた。歴史上悪名をはせた人物の多くは再評価をされているが、道鏡は今もなおダーティーなイメージがある。平安時代の貴族社会にとっては尚更だったはずである。このことが西大寺の衰退に影響を及ぼしているように思えてならない。なお、西大寺の資料には、当然のことながら、一言も道鏡のことは触れられていない。