岩手・宮城内陸地震被災者たちへ支援を

 医師になって3〜4年目に、栗駒町(現栗原市栗駒)の病院に派遣されて約9ヶ月間働いたことがあります。典型的な過疎地域で、古き良き日本が残っていました。子供にせがまれ、田園の中をのどかに走る栗原電鉄を見に、毎日夕方駅まで連れて行ったことをつい最近の出来事のように思い返しています。
 受け持ち入院患者数は常時40名前後、毎日、60名近くの外来患者を診察していました。慢性期中心なので、なんとか数をこなすことはできましたが、なかなかハードな毎日でした。外来の待ち時間も当然のことながらかなり長くなってしまいました。しかし、誰も不平を言わず、逆に診察のたびに「ありがとうございます。」と挨拶されました。「こちらこそ、お待たせし申し訳ございません、こんな未熟な医師でご迷惑をかけます。」と謝りたいくらいでした。
 初期研修をした病院が救急病院で、当直の時も患者が押し寄せてくるのが当たり前で、夜間寝る暇などありませんでした。しかし、救急コンビニ化のはしりだったところで、感謝の言葉を言われた試しがなく、むしろ何でこんなに待ち時間が長いんだと苦情を言われていたことも多々ありました。そんな経験をした後で栗駒に赴任したので、余計素朴な土地柄に魅せられてしまいました。辛いこともあったはずなのですが、今残っているのは懐かしさだけです。医師人生の中の最も大事な想い出が栗駒の地にあります。


 栗駒地区は、岩手・宮城内陸地震で大きな被害を受けています(栗原市公式ウェブサイト 栗駒地区参照)。地震の直接的な被害だけではなく、二次災害、風評被害も報道されています。地域の方はさぞかし不安な日々を過ごされているだろうと心を痛めていました。そんな中、次のようなニュースがYahoo!トップニュースとして配信されました。


 毎日新聞岩手・宮城地震 自衛隊撤収…被災者が見送るより。

岩手・宮城地震 自衛隊撤収…被災者が見送る
6月23日11時59分配信 毎日新聞


 岩手・宮城内陸地震で、行方不明者の捜索活動を打ち切った自衛隊の一部撤収が23日、始まった。各避難所の前では、被災者らが引き揚げる自衛隊員に手を振って見送った。


 宮城県栗原市花山の花山コミュニティセンター前では、被災者約20人が整列。山形県の駐屯地に帰る自衛隊の車列に向かって手を振り、頭を下げて「ありがとうございました」と声をかけた。


 作業員3人が亡くなった同地区の土砂崩れ現場近くから避難している三浦鉄男さん(81)は「余震や雨による二次災害の危険の中で捜索してくれた。生活は大変だが、自衛隊さんのおかげで少し落ち着ける」。自衛隊は今後も入浴や給水の支援を続ける。【丸山博】


 自分たちが最も苦しいはずなのに、支援を受けた人々への感謝の気持ちを忘れない姿に胸がつまる思いがします。住民の多くは、農業に従事しています。特に避難をしている耕英地区の方は、厳しい自然の中で少しずつ開拓を進めて行きました。その営みの中で謙虚さが育まれたのでしょう。


 こういうニュースもあります。朝日新聞「がんばろう神戸」から「がんばろう耕英」 支援始まるより。

がんばろう神戸」から「がんばろう耕英」 支援始まる
2008年6月21日19時40分


 「がんばろう神戸」から「がんばろう耕英」へ−−。岩手・宮城内陸地震で被災した宮城県栗原市を、阪神大震災のボランティアらが提供した車が走り、高齢者の足となっている。人に頼ることをためらいがちな土地柄に、新しい風が吹き始めた。


 「車を山に置いてきてしまった。移動の足がないから、うんと助かるよ」


 21日午前8時過ぎ、やけどで毎日病院に通う岩渕ミチ子さん(72)は、地元・耕英地区の「くりこま高原自然学校」のスタッフが運転するワゴン車に乗り込んだ。


 みんなに元気を出してもらいたいと、車には「がんばろう!耕英」のステッカー。ナンバーは阪神大震災の日付にちなんだ「117」だ。


 ヘリコプターで避難したため移動手段がなくなったと、学校長の佐々木豊志さん(51)がブログでもらしたところ、阪神大震災などで災害支援をしてきた長野県のNGO「ヒューマンシールド神戸」の吉村誠司さん(42)らが応じてくれた。宮城県多賀城市の「多賀城北日本自動車学院」も別に教習車2台を提供してくれた。


 95年。吉村さんは、阪神大震災の被災地へ発生4日後に駆けつけた。「もっと早く行ければ多くの人を助けられたのに」。以来、各地の被災地に駆けつけている。「中越地震の時も山間部の人は移動手段がなくて動けなかった。今回も同じ。車を届けたいと思った」


 神戸からは足湯やマッサージのサービスをするボランティアも訪れた。菅原みゑ子さん(76)は「神戸から来てくれるなんて、本当にありがたい」と語った。


 ただ栗原市は当初から、ボランティアの受け入れに必ずしも積極的ではなかった。


 ボランティアの窓口となっている市社会福祉協議会には、これまでに市外から約30件の申し入れがあったが、柔道整復師会など専門機関以外はすべて断った。


 協議会が被災者に聞いたところ、余震への不安が強かったり断水で困ったりしている人はいるものの、市内のボランティアなどで対応できていると判断したからだ。コミュニティーの結束が強い分、市職員や被災者は「よその土地の者には任せたくない」という気持ちもあったという。


 それが、地震発生から時間がたつにつれ、住民の中では少しずつ変わり始めている。


 地元でバーなどを経営する伊藤俊さん(32)は耕英地区の住民が避難している「みちのく伝創館」前で、カレーやうどんなど計300食をふるまっている。「ボランティアも、地元でやれれば一番いいが、被害を受けている人もいる。外部から力をいただけるのはありがたい」


 耕英地区振興協議会の大場浩徳会長(48)は「地震直後はショックで落ち込んでいた。でも私たちのために動いている人がいると知り、復興に向けて動き出さねばという気持ちになり始めた。そのために今は、もらえる応援は素直に受けようという気持ちです」。


 培ってきたコミュニティーの強さが被災者たちを支えています。そこに、ボランティアの方々の精神的支援が加わり、新たな力を生み出しています。こういう情景をみると、思わず応援したくなります。ささやかな取組みですが、当院でも募金活動が開始されました。
 被災者の方々が一刻も早く平常の生活に戻れることを心から願ってやみません。