日本におけるリハビリテーションの歩み

シリーズ福祉に生きる8 高木憲次

高木憲次 (シリーズ 福祉に生きる)

高木憲次 (シリーズ 福祉に生きる)

 わが国の障害者福祉、とくに肢体不自由児・者の療育事業の開拓者、推進者として多大な貢献をした。


 日本におけるリハビリテーションの歩みを語る上で、高木憲次先生のことをはずすわけにはいかない。本書に沿って、高木先生の事業を中心に年表としてまとめた。

  • 大正5年(1916) 東京帝国大学整形外科医局入局。同年12月、最初の肢体不自由児調査実施。
    • 高木憲次のメモより: 治療すれば治るものも、また治してあげようとしても、「黙ってそっとしておいてくれ。よけいなことをしてくれるな。家の恥になる。」というような時代であった。先ず世の中の人々のこの考え方から直さなくてはという事を痛感したので、「隠すなかれ」という運動を唱え出し、世の中の啓蒙を思った。
  • 大正7年(1918) 初めて「夢の楽園教療所」の説を提唱。
  • 大正10年(1921) 肢体不自由児施設「柏学園」が設立される。
  • 大正11年(1922) ドイツ留学。
  • 大正13年(1924) 「クリュッペルハイムに就て」の論文発表。
    • 「クリュッペル」救済事業には何うしても整形外科的治療、不具児(先天性ならびに後天性)に対する特種の教育、手工及工芸的練習、及び職業相談所、以上四つの機関が協力努力して、はじめて其目的を到達し得るのであります。
    • この論文は、「療育」施設の必要を訴えた我が国最初の記念すべき論文となった。
  • 大正13年(1924) 東京帝国大学整形外科学教室第2代教授に就任。この時、36歳。
  • 大正14年(1925) 「肢節不完児福利会」の発足。同会会司となる。
  • 大正15年(1926) 日本整形外科学会発足に尽力。
  • 昭和 3年(1928) 「肢体不自由」の名称を提唱。
    • 高木憲次の記述より: 「学令期を闘病にのみ消光、不就学ながら、頭脳明晰、漸く丁年となって宿痾癒ゆるやいなや、諸難関を突破して学士となり、現在国会議員として活躍しておられる某名士が(注 元厚生大臣橋本龍伍のこと)、当時一患児として、余の質問に答えて曰く、新名称に就て別に案はない、唯名称選定に対して意見はある。「僕らは、なにも、具わっていないとか、或は欠けているところありとか、他人から批判されたくない。ましてや姿や動作の形容まで表現批判されたくない。自分自身が唯不自由に感じているだけのことであって、一切他人から批判されるような名称には我慢が出来ない」という明快な意見を述べられた。これにヒントを得、「肢体不自由」なる名称を考案し、主唱しはじめた。
  • 昭和7年(1932) 肢体不自由児学校、東京市立光明学校が設立される。
  • 昭和9年(1934) 日本医学会総会にて、「整形外科学の進歩と『クリュッペルハイム』」と題する講演を行う。
  • 昭和17年(1942) 肢体不自由児施設「整肢療護園」が開園され、園長となる。療育事業が開始される。
  • 昭和20年(1945) 空爆により整肢療護園の建物の大部分が灰燼に帰する。
  • 昭和22年(1947) 児童福祉法制定。
  • 昭和23年(1948) 「日本肢体不自由児協会」が設立され、会長となる。東京大学教授退官。
  • 昭和24年(1949) 身体障害者福祉法制定。
  • 昭和26年(1951) 「整肢療護園」が厚生省の管理のもとに、児童福祉法に基づく肢体不自由児施設(療育施設)として再発足し、「日本肢体不自由児協会」に経営を委託された。
  • 昭和38年(1963) 脳卒中発作にて死去。享年75歳。


 ともすれば、日本のリハビリテーション第二次世界大戦後に米国の影響を受けて始まったと思われがちである。しかし、高木憲次先生の業績を振り返ると、そうではないことがわかる。整形外科黎明期に、肢体不自由児の実態をふまえ、治療と教育、そして職業教育まで含めた総合的対策を提唱され、それを「療育」と名づけた。また、「肢体不自由」という今日まで使用されている用語を造った。総合的リハビリテーションノーマライゼーションという概念が、日本の伝統に沿った形で産み出された。


 第二次世界大戦の真っ最中に、どうして「整肢療護園」を建設することができたのだろうと、いつも、学校の講義をしながら思う。本書を読むと、傷病兵や傷痍軍人に対する施策の一環として具体化されたが、その後、傷病兵は軍自体で傷痍軍人は政府の組織で扱うことになり、肢体不自由児だけで施設が建設されたという経過が記されている。いわば、戦時中の微妙な力関係の中で肢体不自由児施設が偶然できあがったようにも見える。しかし、そこまでに至る間に費やした高木憲次先生の長年の努力がなければ、施設建設も戦後の障害児(者)福祉の発展もありえなかった。


 日本のリハビリテーションは、先人の営々とした努力で築き上げられてきた。目先の利益に追われることなく、理想の実現を目指した地道な取り組みを私たちも忘れてはいけないだろう。